ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

マタイによる福音書連続講解説教

2024.4.21.復活節第4主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書8章18-27節『 嵐の中で 』

菅原 力牧師

 今朝の聖書箇所は、新共同訳聖書が区分けしているように、二つの箇所から成っています。前半18節から22節には律法学者と、弟子の一人が登場して主イエスと問答を交わす。後半は主イエスと弟子たちが舟に乗って向こう岸に行こうとしたときの出来事が記されている。それで、別々の独立した話が二つここに並べられている、というふうにも読めないこともないのです。

 しかし、いつも申しますように、この区切りは翻訳者が勝手につけたもので、もともとの聖書にこういう区切りがついているわけでも、小見出し(今日の箇所で言えば、「弟子の覚悟」と「嵐を静める」)があるわけでもないのです。むしろこの箇所は、18節から27節までを一括りとして読むよう、マタイは促しているのではないか、と思うのです。そのことは気づかされるのは、ここに繰り返し出てくる言葉によってです。

 聖書を読みます。おそらく多くの人は意味から入っていきます。無意識のうちに意味を読み取ろうとしています。もちろんそれはまちがった読み方ではないでしょう。しかしその読み方だと、自分の読み取った意味に、拘束されることもよくあるのです。何回も読み、そして眺めていると気づくことがあります。この箇所には「従う」という言葉が折り重なるように出てきます。

 19節、22節、23節、27節と出てくるのです。同じ言葉が四度も繰り返されているのに着目すると、まだよくはわからないけれど、ここは全体として繋がっているのか、という疑問を持つのと同時に、何がどうつながっているのか思い巡らし始めるのです。

 主イエスが弟子たちと向こう岸に行こうとされたときです。一人の律法学者が主のもとにやってきました。「先生、あなた方おいでになるところなら、どこへでも従ってまいります。」律法学者というのは、ユダヤ教の中枢というべき最高法院のメンバーであった人たちです。しかしマタイ福音書によれば、その律法学者の中には、主イエスを先生と呼び、どこへでも従ってまいります、という人がいた、というのです。驚きです。ヨハネ福音書にも、ニコデモのような人が登場しますから、ごく限られた人であってもそういう人がいたのでしょう。

 ところが主イエスはこの律法学者に対し、直ちに歓迎の辞を述べたわけではなく、むしろ「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない。」と応答されるのです。人の子というのは主イエス・キリストのことですが、従ってまいります、と言ってきた人に対して、わたしには枕するところもない、安住する場所がない、という答え方はずいぶん否定的にも響きます。

 また弟子の一人が、主イエスに「主よ、まず、父を葬りに行かせてください。」というと、主は「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と答えるのです。ここに弟子の一人の言葉が出てくるのは、「従う」ということを巡ってのことで、ただ葬儀に行く、という話ではないでしょう。従うにあたって、まず、これをしてから、と弟子は言っているのです。父の葬りというのは、いうまでもなく大事なことです。にもかかわらず主の応答は、否定的です。死者を葬るのは死者に、というわかりにくい言葉ですが、今はその細かい論議はしないで言えば、しかしあなたはわたしに従ってきなさい、と呼びかけているのだから、弟子の一人に対しては否定的に語るのです。この19節から22節の話、ずいぶんだな、と思う話です。

 それに続いて舟の上での話が記されています。その際、主が舟に乗りこまれると、弟子たちも従った、とあります。もともとこの従うという言葉は「ついていく」という日常の動作をあらわす言葉でもあったので、ここでもついていくでも「従う」という訳もいずれも可能です。しかし、新共同訳聖書はあえて「従う」と訳している。これは大事な訳です。なぜならここをたんについていくというのではなく、従うという言葉を用いていることで、前の部分と繋がりが可視化されるからです。「従う」繋がりになってくるのです。一行が舟を漕ぎ始めると、湖に嵐が起こり波にのまれそうになったのです。湖上での嵐、しかものまれそうな波。漁師をしていた弟子たちにとってすら、いや漁師をしていたからこそ、この恐ろしさにおののき、パニックになったのではないか。ふと見るとそのような中、主イエスは舟の中で眠っておられた。なんという能天気、鈍感、あきれる。弟子たちが主イエスに近寄り起こした、身体を揺り動かして、「主よ、助けてください。溺れそうです。」と叫んだのです。すると主は、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と弟子たちに向かって言うのです。弟子たちはこう言われてどう思ったのか。何も書かれていません。しかしカチンときた弟子もいたに違いない。こんな状況で怖がらない方がおかしいだろう。なぜ信仰薄い者と呼ばれなければならないのか、と。

 ところが主はここで起き上がり、風と湖をお叱りになる。すると凪になったのです。人々は驚いて「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか。」と言ったのです。

 

 律法学者の従ってまいります、という意志の表明に対して、主イエスの言葉はまことに手厳しいというか、簡単ではないことを語ります。まず父を葬りに行きたい、という弟子に対する主の言葉はさらに厳しいともいえます。そもそも葬りにも行けないほどの緊急の場面なのでしょうか。律法学者も、弟子も、主イエスに従いたいと思っている者です。その二人に対して、主の応答は、ハードルの高いものだと感じられる。主に従うということは、現在の安住から枕するところもない主の歩みに従うことだ、ということも、親を送ることよりも従うことを優先しなさい、というのは、とてもハードルの高い「従う」が要求されているようにも感じられるのです。

 主イエスはこの二人に何をお語りになりたかったのでしょうか。

 律法学者は、「先生、あなたがおいでになるところなら、どこへでも従ってまいります。」と言ったのですが、この言葉、わたしたちは福音書において聞き覚えのある言葉に似ています。ペトロの言葉です。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」というあの言葉です。自分の覚悟でついていく、という自信にあふれた言葉です。どこへでも従ってまいります、という言葉にも、同じような自信の響きがあります。自分の力でついていく、という独特の驕りがあります。キリストに従うのに、それは余分なものです。

 弟子の一人にキリストが言われた言葉は酷な言葉のようにも聞こえます。わたしたちの人生には、まずかたづけなければならないことがあるのです。まず、これをしてから、これをやってから従います。仕事が忙しい時には、仕事を片付けてから、あのことこのことをしてから、それからみ言葉に聞きます。そうではない。キリストに従う、ということはまず、キリストに従う生活のことなのです。まず、神の国と神の義を求めよ、なのです。仕事が忙しい、だから仕事が優先、というのではない、その中で、み言葉に聞くのです。忙しさの中で、目の前にある事柄のその中でキリストに従うのです。わたしに従いなさい、という主の言葉に聞くのです。

 この二人への主イエスの応答は、わたしたちの従う「姿勢」を問うておられるのです。一方で自分の力で自分の信念のようなもので従おうとしてはいないか。一方で、主イエスに従うことが二の次、三の次になっていないか。結局はキリストの言葉に聞き、従うことが後回しになっていないか、と問いかけてくるのです。

 その問いかけの中で23節以下を読むのなら、弟子たちはまず主イエスに従っていく、従わないのではない。ついていく。だが、困難に直面し、手に負えない出来事に遭遇する中で、人生のさまざまな事柄にぶつかる中で、共にいてくださるキリストがいてくださることを見失うのです。キリストが共にいてくださることの恵みと支えを見失って、不安に陥るのです。信仰の薄いという言葉は信仰が小さい、という言葉です。小信仰なのです。ないわけではない。一応ついていっているのです。けれども自分の人生のその真中で、肝心のインマヌエルの恵みを受け損なっているのです。従う、ということは、わたしの行為行動と受け取りがちです。だからこそあの律法学者のような言葉も出てくるのです。しかしそれは本当のことではない。キリストに従う、ということはまず、キリストの恵みを受けるのです。キリストの信実を受けるのです。キリストのみ言葉に聞いてそれを受けとる、そして感謝し、喜び、応答して聞き従っていくのです。主体は、キリストに在って、そのキリストへの応答としての従うなのです。

 人生は嵐に遭うことも、何かにのまれそうになることもある。それは困難な出来事だけでない。のまれるとは、日常にのまれることを含んだ言葉です。いそがしいとか、ただ生活に追われてとか、世のなかの流れにのまれることも少なくないのです。そこでわたしたちは、従う信仰が問われていくのです。それは、律法学者のような自分の力で従ってまいります、ではなく、あれの次に、これをしたら、と言って後回しにする従うでもない。自分の人生の歩みの中で、インマヌエルの恵みを見失い、不安にさいなまれていく、小信仰の歩みでもない。

 キリストの恵みを受ける、み言葉に聞き続けて、日々恵みを受ける、そこからしか始まらないのです「従う」ということは。

 「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」という人々が言った言葉が最後に記されています。ストレートに思ったことが口をついて出てきたのでしょう。けれどもこの言葉は、風や湖という被造物はキリストの言葉にすぐに従った、しかし人間は小信仰で、素直に、大胆にキリストに従おうとしない、そういう人間の姿を映し出しているようにも思えます。

 「わたしに従いなさい。」というキリストの言葉に、あらためて聞き、従っていきたいと思います。