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マタイによる福音書連続講解説教

2024.4.28.復活節第6主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書8章28-34節『 悪霊に取り憑かれた人を癒す 』

菅原 力牧師

 新約聖書、中でも福音書をわたしたちが読んでいて、気づかされることの一つが、悪霊、悪魔の働きのものすごさ、ということがあろうかと思います。ものすごさ、という表現が違和感があるなら活発と言ってもいいし、日常的かつ深く人間の中に分け入っている、という表現をしてもいいものです。悪魔と悪霊の違いということは今問題にする必要がなく、同じものとして理解すると、福音書だけでも悪魔、悪霊の働きは驚くほど人々の日常の中に入り込んでいる。あまりに多くて、わたしたちは言葉の上だけで慣れてしまって、たいした注意もせずに読み進むことがあるぐらいです。

 

  今読み進んでいるマタイによる福音書の8章においても、16節に「夕方になると、人々は悪霊に取り憑かれたものを大勢連れてきた。」とあります。大勢に連れてきた、という言葉に注目してほしいのです。悪霊に取り憑かれた人は人々の日常の中に大勢いたということです。そして今日の聖書箇所では悪霊に取りつかれたものが二人、墓場から出てイエスのところにやってきた、のです。

 

  人々は悪霊の猛威の中にありました。悪霊というのは、神に敵対する勢力であって、神の喜び給わない現実はすべて悪魔の望むところでした。したがって人間の罪に機会を与えるのも、悪魔の働き、悪霊の力でした。悪霊は人間に取りつき、心身共に悪霊の力に屈服させていく。

 

  悪魔、悪霊は、人間を神から引き離そうとさまざまな力で人間を襲いました。それだけでない、悪魔はこの地上に神の支配に対抗する悪魔の国を築こうとしていた。神から離れ、神に逆らう人間によって、悪魔の国を築こうとしていました。

 

  人々は、有形無形、さまざまな形で悪霊の働き、力を否応なく感じてきました。しかも人間はその悪霊の働きの前で、まことに無力だということも知らされてきていました。

 

  墓から出てきた悪霊に取りつかれたものは、ひじょうに狂暴で、暴れていたというのです。誰もその道を通れないほどであった、ということは、悪霊に取りつかれたものを誰も押さえつけることはできなかった、ということなのです。それは悪霊の力の前での人間の力の無力ということに他ならない。わたしたちはそのことをまず受けとめておかなければなりません。その人の努力があれば、悪霊が取りついてもなんとかなるとか、信仰があればなんとかなるとか、そういうものではない、ということです。圧倒的な力でその人を牛耳っているということです。この二人が主イエスのもとにやってきたのです。突然彼らは主イエスの前で叫び出した。「神の子、構わないでくれ。まだ、その時ではないのにここにきて、われわれを苦しめるのか。」なぜ悪霊に取りつかれ者が自分の方から主イエスのもとに来て、こんな叫びをするのか。そもそも構わないでほしいのなら、主イエスのもとにやってこなければいい、そう思った人も多いのではないでしょうか。おそらく悪霊は本能的に自分にとって最も脅威となる相手を感じているのです。そして取り乱したのです。悪霊からすれば、自由自在に働き力を振るっていたその場所に、最も脅威となる相手が近づいてきた。しかも悪霊は、神が最終的に勝利する終末の時までは、自分たちは自由に力を振るえると思っていたのに、こんな形で神の御子がやってくるとは、と恐れおののき、取り乱し狼狽したのです。律法学者も、祭司長も、ファリサイ派も主イエスがキリスト・神の子だとは、知らない、わからない、受けとめていない。だが悪霊は主イエスの正体を見抜いている。それは悪霊の特性だと思います。なぜなら悪霊こそは、神に寄生するようにして働いている者だからです。神も、また神の働きも、悪霊こそが熟知している存在だからに他なりません。

 

  だから悪霊は神の子である主イエスの前で、無駄な抵抗しない。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願うのです。悪霊は神の子イエス・キリストが何者であり、どんな権威を持っているかも知っている。だからこそ、戦う道ではなく逃げ出すことを望んだのです。自分の戦える相手ではない、と判断していた。

 

  最初に申し上げたように福音書には悪魔や悪霊がたびたび登場してきます。そしてよく注意して読むと、マルコと、マタイとでは主イエス悪霊とのたたかい方が微妙に違うのです。ルカやヨハネもそれぞれ違うのです。それぞれ受け取っていた伝承の違いということもありますが、それぞれの福音書記者の視点の置き所が各々違うということでもあります。例えばマルコでは穢れた霊に取りつかれた人と主イエスとの会話が詳しく記されていますが、マタイではその会話はありません。取りついた悪霊どもが「豚の中にやってくれ」と願うと、ただ一言、「行け」言われる。悪霊に取りつかれた人への関心よりも、悪霊を追い出す主イエスの力にだけ注目しているということです。「すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。」おそらくは悪霊は豚の中に入ることで延命を願ったにもかかわらず、結果的には滅ぼされてしまったのです。短い記述ですが、主イエスの悪霊に対する権威の力がはっきりと物語られています。

 

  福音書のこのような箇所を読んで、まるで絵本の中の物語のようなものを感じる人もいるかもしれません。人々を苦しめる悪い存在を物語の主人公が追い払い、勝利する物語。そういう距離感でこの聖書箇所を読む人がいたとしても不思議ではないでしょう。

 

  しかしその物語が、自分と地続きであり、繋がっているということがわかってくると、この物語はにわかに自分自身の物語だということがわかってくるのです。

 

  自分と地続きということは何かといえば、それは自分が悪霊と無縁だとは、とても言えないということです。自分の歩みを振り返ると、悪魔と無縁に生きてきたとはとても言えないからです。取りつかれている、と言われれば違和感を覚える人であっても、知らぬ間に悪霊の働きにやられていた、と後になって気づくことはあるでしょう。確かに現代において、悪霊や悪魔は死語だという人もいます。しかし、悪霊の働きが、わたしたちを神から遠ざけたり、神から離反させたり、神が生きて働いていることを見失わせようとすることであることを思うと、悪霊の働きは、現代においていよいよ活発に、日常的に深く人の中に入り込んでいるのではないでしょうか。その悪霊の働きから無縁だという人は、いないのです。まさに悪霊はこの地上に自分たちの王国をそれもわたしたちを用いて、打ち立てようとするのです。

 

  主イエス・キリストの使命はその悪霊との戦いにありました。悪魔の試みに打ち勝つことにありました。悪魔というのは、もともと「試みる者」という意味です。その悪魔の試みの中に立って、そこで神を仰ぎ、神との関係の中で生きる、そのようにこの地上で生きることそのものが主イエスの使命であったのです。わたしたちは悪魔の試みに、打ち勝つことができない。圧倒的な力で牛耳られている、と申し上げましたが、実際そうなのです。

 

  主イエスはここで、そのような悪霊の力にねじ伏せられている人間に対する痛みや悲しみ、そして何より悪霊そのものに対する憤りの中で、悪霊の願いに対して、「行け」と言われた。そして悪霊は豚の群れの中に入り、湖になだれ込み、溺死したのです。

 

  「豚飼いたちは逃げ出して、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中のものがイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見るとその地方から出て行ってもらいたいと言った。」

 

  豚飼いたちの報告を受けて、町の人々は、イエスのもとに来て、出て行ってもらいたいと言ったというのです。悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出したのだから、感謝されてもいいにもかかわらず、イエスの力に不気味なものを覚えたのか、豚が溺死したということで、自分たちの持てるものが脅かされて、怖くなったのか、出て行ってくれ、と主イエスは言われたのです。この地方はユダヤ人からすれば異邦人の地なので、彼らにとっては宗教的な違和感があったのかもしれない。しかしいずれにせよ、主イエス・キリストの働きが、悪霊を追い出し滅ぼすという働きが、まともに受けとめられていない。受けとめられないどころか、出て行ってくれ、と言われる。それはこの8章の20節で主が言われた言葉「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない。」という言葉を否応なく思い起こさせる。主イエス・キリストは誰のために悪霊との戦いをしておられるのか。人間を取り巻く、人間の中にある深い闇と戦いになってくださる主イエスに対して、出て行ってくれ、というこの町の人々の言葉は、きわめて象徴的です。主イエスを十字架へと追いやった人々とは、出て行ってくれ、と言った人々に他ならないからです。

 

  先週の説教で聞いた18節から27節の聖書箇所は「従う」ということで繋がった話だということをわたしたち知らされました。そのことを受けとめながら今日の聖書箇所を読むのなら、わたしたちにとってキリストに従うということは、悪霊を追い出し、悪霊の働きという神に逆らい叛く力の中で、いよいよ神の恵みの中に立ち、神との関係の中で生き、悪霊を滅ぼす主イエス・キリストに信頼し、委ねて、自分に与えられた人生を生きることに他ならないのです。確かに、わたしたちの周囲に、わたしの中に、悪霊の働きや悪魔の試みは、溢れている。けれどわたしたちはそれを自分の力で払いのけるのでもなく、その必要もなく、またできないことでもあるけれど、共におられる主イエスの力を、恵みを、権威を信じ仰ぎ見て、キリストに導いていただけばいい、その歩みが従うということになっていくのです。