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マタイによる福音書連続講解説教

2024.5.5.復活節第6主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書9章1-8節『 起き上がって歩け 』

菅原 力牧師

 マタイによる福音書の9章の1節から8節のみ言葉に聞きました。短い箇所ですが、大事なことがいくつも出てくる箇所です。読んだ後に、いろいろと考えさせられていく聖書箇所と言えます。

 主イエスは舟に乗って、また自分の住む町に帰ってくると、主イエスのもとにある人々が病人を連れてきました。すると主はその病人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」と声をかけられたのです。

 この出来事を見ている人々の中に律法学者がいましたが、その中に「この男は神を冒瀆している」と思う者がいた、のです。

 主イエスはその律法の学者の心の声を見抜いて、その人たちに問いかけます。「『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて歩け』というのと、どちらが易しいか」。という問いです。難しい問いかけです。両方とも難しいからです。

 しかし、起きて歩け、という言葉は、その治癒行為、癒しの行為が今目の前で現実となるかどうか、今ここでの結果が問われる。一方の罪の赦しというのは、今ここでは、この言葉で、何かが結果として出てくるわけでもない。だから「罪の赦し」ということの方が易しい、と思う人もいたでしょう。しかし一方で、病気の癒し治癒行為は医者も、魔術師もしたでしょう。しかし罪の赦しは神によるものだ、と信じる人にとっては、『起きて歩け』という方が易しい、ということになったでしょう。その意味ではこの主イエスの問いかけはどちらという判断が難しい、問いかけでした。

 しかも主イエスはその問いに相手が応える間もなく、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そう語られて、病人に向かって「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われる。するとその人は起き上がり、自分の足で歩いて家に帰っていったのです。

 読んでお分かりのように、この出来事が難しく感じられるのは、罪の赦しと病気の癒しとどちらがたやすいか、AかBかと尋ねておいて、実際にはAもBもキリストがなさったということにあります。少し込み入った話になっていくようなのですが、整理して、今日の聖書箇所を読み進んでいきたいと思います。

 主イエスはご自分のもとに連れてこられた病人に対して、いきなりと言ってもいい形で、「あなたの罪は赦される」と言われた。唐突な感じがします。しかもマルコ福音書の平行記事を読むと、連れてきた人たちのことがあれこれ書かれているのに、マタイはバッサリ割愛して、マタイが必要不可欠と思う大事なことだけを書き記しています。それが「あなたの罪は赦される」ということだった。

 病気の人は、当時あなたが病気であるのは、あなたの罪の結果だ、と言われもした。しかしキリストは病気が罪の結果だとは思っておられなかった。しかし病気と罪とは深く絡み合っていた。例えば、人は病気になると、神を疑い始めたり、神はわたしを見離したと思い込んでみたり、病気になって不信仰になり、罪の中に身を置き続けるということもしばしばある。病気は罪の結果ではないけれど、病気の中で、罪を重ね、悪霊・悪魔の誘惑に敗北し続けることは少なくない。キリストは一人の病人と向き合い、その人に対して罪の赦しを与えることで、病の根本的な治癒を与えようとされたのです。罪の赦しはあなたは神に見離されたあなたではなく、神に愛されている、あなたの罪を担って、そのあなたの罪を赦し、神の恵みの中においてくださる神がいらっしゃる、ということを受けとらせる。そして、その自分が病と向き合っていく。そのために主イエスはここで、一人の病人の罪の赦しと共に、からだの癒しを同時に皆の前で起こされた。

 あらためて皆さんとご一緒に確認しておきましょう。主イエス・キリストは罪の赦しを与える力があるのです。そして、病を癒す力があるのです。この聖書箇所ではその主イエスの力が、あらわされ、具現しているのです。二つとも、わたしたちには驚くべきこと、というほかない。圧倒される力です。ここでは、まず「罪の赦し」が語られる。そして主イエスはその「罪の赦し」において「体の癒し」を与えられるのです。

 そのうえで、わたしたちがここで注意して聞くべき言葉は、キリストが言われた「権威」という言葉です。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」という主イエス・キリストの言葉です。人の子と言うのは、神の子イエス・キリストのことです。ご自分のことです。

 

 ここで主イエスはまことにはっきりと、わたしが地上で罪を赦す権威を持っている、と言われたのです。

 どうしてここで主イエスは「権威」という言葉を用いられたのか。ふつうに考えれば、『力』と言っても通じるところです。もちろん権威には力という意味もあるのですが、主はあえて、というか満を持して『権威』という言葉を語られた。今朝はこの権威ということをご一緒に受けとめていき、主のみ心に触れたいと思います。

 権威という言葉は、日本語でももちろん定着している言葉ですが、辞書を引くと1)他を威圧して、従わせる力、2)誰もが認める優れた価値を持っていること、3)最高の人(例えばこの分野での研究において最高の人、という時に権威)というような意味が出てきます。もちろんこうした意味を聖書の言葉も持っているのですが、当然違いもあります。それは聖書では人間の権威よりも神の権威が中心にあるからです。例えば「制限なき神の主権」という意味で権威という言葉は使われる。そこで大事なことは、聖書で権威という場合、神の力、神の全権、ということ根本にあり、そこに焦点があるということです。

戦後、大きく変化したことの一つに、権威というものに対する人々の態度、ということがかつてよくあげられました。親の権威だとか、学校の先生の権威だとか、戦前は権威の象徴だったものが、失墜とは言わなくても相対化された。そもそも戦前の日本は天皇の権威を頂点として形成されていました。戦争が終わり、そうした権威そのものに対する疑義が反動のように出てきて、権威という言葉そのものが胡散臭い、という感覚を持つ人が増えたのです。もともと権威の実体がはっきりしないものが、歴史の中で相対化されるというのは、ある意味当然なのでしょうが、そういう中で改めて「権威」とは何か、問われるのです。

聖書において語られる権威は、神の権威です。人間の権威は神の権威の前では相対化されますし、しかるべき位置に置かれますから、聖書では人間の権威は、中心のテーマとはならない。大事なのは、神の権威です。神の全権と言ってもいい。それは今一つの事だけ申し上げると、神のわたしたちに対する救いの業の全権ということです。神の権威と言って、何か、わけの分からないものなのではなく、わたしたちを救おうとされる神の御意志、神の御計画、神の御心のことです。そこに神のみ力が凝集される。集中される。この神の権威、力、全権が全き形で現れ、実行されるのは、終末の完成のときです。終末の完成というのは、神の力があまねく示されるときなのです。だからそれは完成なのです。だからすべての人はその終末の時に神の権威、神の力、神の全権のもとに置かれるのです。罪の赦しもその完成の時にあらわになることです。

 しかしイエス・キリスト、神の子がこの世においでくださり、この地上の生を身に受けて歩まれた。この方には神の権威が授けられている、神の全権を身に受けておられるのです。それが福音書が告げていることなのです。例えば、マタイによる福音書はその冒頭の1章でこう語るのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 そしてマタイによる福音書の最後の28章では「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」という主イエスの言葉が記されています。この権能と訳している言葉は権威という言葉です。キリストは神の救いの業の全権を授かっている方なのです。

 主イエスの使命は、自分の民を罪から救うことなのです。それは確かに終末の時に完成すること。しかし、主イエスがその全権を授けられて、この世に来られて、その救いの業は始まっているのです。罪の赦しも、ここにあるように驚くべきことに与えられていくのです。もちろんそれは十字架によって示された業です。しかしイエス・キリストには罪の赦しの権威が与えられているのです。

その場に居合わせた律法学者は主イエスの言葉に対して、神を冒瀆することだ、と言ったのは、当時のユダヤ人の多くからすれば当然のことでした。なぜなら罪の赦しは神のみの業、神のみのなさることだったからです。それに対して主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」と宣言された、それはご自分が神の子であり、神の権威を、罪の赦しの権威を授かっている、ということの宣言なのです。福音書は、中でもマタイによる福音書は、このことをこそ伝えるために書かれている、と言ってもいいのです。この方こそ、神の子であり、神の権威を授かったものなのだ、という告知です。

 わたしたちはおそらく、権威というものの前での態度というものを実際のところ、よく知らないものです。そう思った方がまちがいない。いたずらに権威の前で卑屈になったり委縮したり、かたじけなさに涙こぼるる、というような態度になったり、変な反発をしたり。しかしわたしたちにとって大事なことは、神がわたしたちの救いのためにどれほどの愛と、恵みと、熱情を持って、力を注ぎこまれたか、その何ものによっても妨げられない権威、どんな困難においてこの救いの意志を貫徹していかれる全権というものをより精確にかつていねいに受けとめて、この神のわたしたちに向けられた権威を感謝し、ほめたたえ、讃美し、礼拝することがふさわしい道なのです。