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マタイによる福音書連続講解説教

2024.5.12.復活節第7主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書9章9-13節『 わたしに従いなさい 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所はお読みになってわかるように二つの出来事によって成り立っています。一つは主イエスが徴税人であるマタイを見つめて、呼びかけられ、マタイがそれに応えたという出来事。

 もう一つは、主イエスがある家で、徴税人や罪人と共に食事しているのをファリサイ派の人が見て、弟子たちになぜあなたたちの先生はこういう人たちと一緒に食事をするのか、と咎めた。それに対して主イエスがファリサイ派の人に応えた、という出来事です。

 この二つの出来事は無関係な二つの出来事ではなく、深く繋がっています。深く関連していると言ってもいい。

 まず、後半の方の出来事から聞いていきたいと思います。主イエスが徴税人(徴税人というのは税金を徴収する人)や罪人と関り、挙句食事まで一緒にしているということに対して、ファリサイ派の人が咎めた、という出来事です。徴税人、罪人というのは、ユダヤ社会において蔑まれていた。それは端的に言えば、その人たちが律法に適った生活をしていないからで、こういう人たちとの交わりを避け、清さを保つことこそ、ファリサイ派にとって大事なことだったからです。主イエスはこのファリサイ派の人々に対して、三つのことを立て続けに言われた。一つは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」という短いたとえ話。二つ「わたしが求めるのは憐れみであって、生贄ではない」という旧約ホセア書の言葉の引用。三つ。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」この三つは互いに関係している言葉ですが、二つ目の旧約の引用、これを理解することが大事です。ここで言われる生贄とは、儀式的な清浄さに関することで、生贄を献げることで、自分の罪を贖い、清めて、そして神の前に進み出るものとされる、という考えに基づくものでした。だからユダヤ人で律法を守ろうとする人は誰でも、礼拝するときにまず動物の生贄を献げる。しかし主イエスがこのホセア書の言葉を引用したのは、神ご自身が求められることは、自分自身の清さということよりも、他者への愛であり、隣人への憐れみであり、生贄がまず求められるのではない、ということです。つまり主イエスは、ご自分が徴税人や罪人と呼ばれる人々と関わり、食事をしたりすることは、罪人への愛であり、憐れみであって、それはファリサイ派の人々がよって立つ旧約聖書によって示されるものなのだ、と言っておられるのです。このホセア書の言葉が、医者を必要とするのは、という言葉と、わたしが来たのは、という文章を繋いでいるのです。

 医者を必要とするのは、病人だ、という主の言葉。そして、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」つまりキリストのまなざしはあくまでも今病んでいる人、罪人に向かっているというのです。そしてそれは、まさしく旧約で語られる神の愛、神の憐れみによるものなのです。

 ここでわたしたちはこれまでご一緒に聞いてきたマタイによる福音書の8章9章を振り返りたいのです。主イエスはまず8章冒頭で、らい病を患っている人を癒された。次いで、百人隊長の僕、もしくは息子を癒された。そしてペトロの姑を癒し、多くの悪霊に取りつかれた者を癒されたのでした。さらに9章では中風の者を癒された。これらの癒しの業を見ると、ここで癒されているのは、社会的に除外されていたり、遠ざけられたり、罪人という烙印を押されたものが多くいたということを知らされてきたのです。明らかにここにはキリストのまなざしのはっきりとした向きがあります。それはキリストが人々を見る時、漠然と見ている、というのではなく、そのまなざしは罪人を見ておられる、というこ とです。

 そして、今日の聖書箇所の前半部分に戻りたいのですが、9節で主イエスは通りがかりに、「マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」とあるのですが、おそらくユダヤの人々は収税所を通る時、徴税人を見ようとはしなかった。顔と顔とが合うのを避けて通った、と思われます。徴税人は人々から嫌われていました。それは税金の徴収に自己裁量が含まれており、決められた額以上に人々から税金を取っていた人が多かったからです。それだけでなく、徴税人はユダヤを支配するローマの手先であり、徴税人が日常接する多くは異邦人だったということもあり、二重三重に嫌われ、罪人として遠ざけていたのです。その人を、キリストは見ておられたのです。見かけたと訳されていますが、たまたま見かけたのではない。見ようとされて「見た」のです。

 徴税人は人々から嫌われていました。嫌われていたから、いよいよ税金を多くとる、そしてさらに嫌われる、の悪循環で、誰からも相手にされなかった。誰からも相手にされない、ということかどういうことか、想像してみて下さい。ザアカイもそうでした。けれど主イエスはその人を見たのです。じっと見たのです。そしてそこで時候の挨拶をしたのではない。ただこんにちは、今日はいい天気ですね、と声をかけたのではない。じつはそれだって嬉しいことだったのではないか。しかし主は単に挨拶の言葉をかけたのではない。「わたしに従ってきなさい」と声をかけられたのです。いきなり。唐突。それなのに、マタイは「立ち上がってイエスに従った」とあるのです。どうしてなんでしょうか。

 どうしてこんなことが、と思う人は多いでしょう。

 しかし、と思うのです。誰からも相手にされない徴税人をじっと見つめる。そのまなざしは、上からのものではなく、腫れ物に触るようなおどおどしたまなざしでもなく、らい病患者に手を差し伸べ、異邦人の僕の病の癒しに関わり、悪霊に取りつかれた者たちを拒否するのではなく受けとめて癒されたその視線です。わたしたちも自分の歩みの中で、いささかなりとも知っているのではないでしょうか。自分が本当に苦しい時、窮地にあるとき、困難にぶつかっているとき、自分を見つめるまなざしをわたしたちも見るのです。その目が自分を裁く目なのか、自分をかわいそうな奴だと蔑む目なのか、それともわたしの苦しみに何らか繋がろうとしてくれるまなざしなのか。

マタイは自分を見つめる主イエスのまなざしを見たのです。わたしは今、まなざしということで、情緒的な話をしているのではありません。そうではなく、存在の向き、その人の存在が何を見つめ、どういう人たちを見つめ、どこに向かって歩んでいこうとしているのか、その存在の向きについて語っているのです。そしてマタイは、このまなざしの中で、この方に従っていこうと思ったのです。

 福音書の著者はここで何の説明も加えていない。なぜマタイが、従ったのか、(福音書の著者マタイと、徴税人マタイとは全く別人物です。)著者は何の説明も書き加えていない。この後の主イエスと、ファリサイ派の人々との問答が大事なことを物語っていると受けとめているからでしょう。敢えて説明は必要ないと思ったのでしょう。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」今苦しんでいる者、今困難の中にあるもの、自分の罪に苦しんでいる者、神に喜ばれる生き方ができないと悩んでいる者、社会からはじき出されている人、わたしはその一人一人のためにやってきたのだ、とキリストは宣言しておられるのです。ホセア書の言葉はむずかしい言葉ですが、生贄や犠牲の献げもので、自分をより清く、するということより、人を愛し、人に仕えていくそのことをこそ神はまず、求め給う、キリストはあえてこの言葉をここで引用し、ご自分の歩む道を語っておられるのです。しかしこう語られた主イエスは、まぎれもなく十字架にかかって、すべての人の生贄となられた方であります。だから犠牲がどうでもいいと言われているのではない。

ただここで主イエスは、あなたという存在はどこに向かって、何を見つめて生きていくのか、と問いかけておられるのではないか。ファリサイ派の人々は、自分の身を清く保つことに心持ちからも注いでいた。それはわかりやすく言えば自分への関心に生きている、ということです。しかしここで主が言われていることは、他者に向かう姿勢、まなざし、他者との関係の事柄です。

もう少し踏み込んで言いましょう。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」正しい人とは誰なのでしょうか。自分の正しさだけに集中して、罪人や、苦しんでいる人、困難の中にある人が視野の中に入っていない人が正しい人なのでしょうか。丈夫な人とは誰なのでしょうか。自分が丈夫だからと言って、病める人、苦しむ人のことが視野の中に入ってこない人が丈夫な人なのでしょうか。

そもそも、自分は罪人ではないから、罪人とは交わらない、という視点は自分を正しい人の側において、罪人と自分を切り離すということなのですが、自分は罪人ではないのか。正しい人と言い切れない自分はいないのか。正しい人と言い切れない自分はどこにいるのか。

主イエスが言われた三つの言葉は、わたしたちに大事なことを問いかけている言葉でもあります。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」という主の言葉は、すべての人に向けて語られた言葉であり、主イエスのまなざしは、すべての罪人に向けられているのでしょう。そして、そのすべての罪人に向かって主イエスは、「わたしに従いなさい」と呼びかけておられるのだと思います。わたしは主イエスの言葉を どこで、どう聞いているのか、あらためて思い巡らしてみたいと思います。