教会暦・聖書日課による説教
2025.3.23.受難節第3主日礼拝式説教
聖書:ヨハネによる福音書6章41-59節『 命のパンを食べる 』
菅原 力牧師
受難節の第4主日を迎えました。今朝は普段聞き続けていますマタイによる福音書を離れ、ヨハネによる福音書のみ言葉を聞き、神を礼拝してまいりたいと思います。
さて、今朝の聖書箇所はヨハネによる福音書の6章の一部分です。ここは6章全体が深く繋がりを持っているところなので、そのことを視野に入れて御言葉に聞いてまいりたいと思います。主イエスは、この6章のはじめで、五千人の人々にパンを与えるという奇跡をなさいました。群衆の中には、その後主イエスにいるところに行き、主から再びパンを受けとりたいと願う者たちがいました。それはただたんにパンがもっと欲しいということではなく、モーセが荒野でマンナを人々に与えて導かれたように、主イエスにモーセのような指導者の姿を重ねていたのかもしれません。しかし主はこの群衆に向かって不思議なことを言われました。それは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠のいのちに至る食べ物を食べなさい」という言葉であり、「神のパンは、天から降ってきて、世に命をお与えになる」という言葉であり、「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」という言葉でした。
主イエスは確かにパンの奇跡を起こされました。しかしそれはただたんに空腹の人たちにパンを与えるというだけのものではありませんでした。キリストにとってそれは一つの大事な「しるし」だったのです。奇跡はキリストにとって「しるし」だったのです。
さて、そうしたことを踏まえて41節以下に入っていきたいのですが、ここでユダヤ人たちが登場します。この人たちは群衆のように主イエスに従ってきた人たちとは違い、主イエスに反感や中には敵対する人たちも含まれていました。この人たちは主イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」という言葉を聞いて、つぶやいたのです。ここでのつぶやきは、不平、不満反感のこもった批判と言っていい。「これはヨセフの息子のイエスではないか。われわれはその父も母も知っている。どうして今『わたしは天から降ってきた』などというのか。」
ユダヤ人たちは主イエスの生まれ、どこから来たのかを問題にしている。だから主イエスがわたしはパンであると言ったパンを省いている。
主イエスはそれに対してお応えになります。ユダヤ人は出自を問うた。主はそれに対して、この6章全体でご自分がどこから来たのか、何者なのか、ということを語られる。この前の箇所でも主は「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ心を行うためである。」と語られる。わたしは父なる神から遣わされてこの世に来た。それは父のみ心をこの地上世界で行うためだ」と言われるのです。
聞いた者はただ驚くほかない、なんという戯言と思った者もいたでしょうし、頭おかしいんじゃないか、と思った人もいたでしょう。
しかし主イエスはご自分が神の独り子であること、神から遣わされた独り子であることを語り、続いて、ご自分の使命は父のみ心を行うことであり、さらにそれがどういうことなのかをここで一気に語られるのです。
48節「わたしは命のパンである。あなた方の先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降ってきたパンであり、これを食べるものは死なない。」「わたしは天から降ってきた生けるパンである。」最初に申し上げたようにこのヨハネ福音書6章はパンの奇跡から始まった。奇跡において、主イエスはパンを与える人、与え手であった。しかし主がここで語るのはキリストご自身がパンであり、このパンを食べるものは死なないというのです。パンということから話は豊かに広がっていくのです。
そもそも、ユダヤ人たちが問うたのは、お前はヨセフの息子だろう、という素朴な疑問だったでしょう。しかし主イエスはそれに自分は父である神から遣わされた神の子であると答え、それだけでなく、わたし自身がいのちのパンだ、と言われた。
しかしそれは、主イエスという存在から精神的な糧、精神的な栄養分を受けとる、という話ではないのです。わたしは命のパンであって、あなた方はこれを食べることで死なない、というのです。
52節にはユダヤ人たちが「どうしてこの人は自分の肉をわれわれに与えて食べさせることができるのか」という当然すぎる疑問を持ったこと、そして議論をしたことが記されています。
ここでの主イエスの言葉は、わたしたちの知恵や理解力でとらえようとすれば、驚くことばかりです。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない。わたしの肉を食べ、たしの血を飲む者は、永遠のいのちを得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」
ユダヤ人たちはさぞ驚いたことでしょう。わたしたちは、「人はパンだけでなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」、という言葉をよく知っています。そしてそれならよくわかるのです。神の言葉によって生きる。このヨハネによる福音書の冒頭には、言は神であった、とあってさらにその後、言は肉となって、わたしたちの間に宿った、とありました。つまり神の言葉とは肉となったイエス・キリストなのだ、とヨハネ福音書はまず語るのです。
神の言葉、神の恵み、神の御意志、それがイエス・キリスト、肉となってこの世に遣わされたのです。そしてキリストはご自分の肉を、身体をこの世に差し出して、十字架にかかられた。わたしたちの罪を負い、十字架で死んで、甦らされた、そのいのちをわたしたちに与えるためです。わたしたちはキリストから復活のいのちをいただく、それがここでいう永遠のいのちのことです。そしてそれがいのちそのものとしてのキリストというパンをいただく、ということなのです。確かにわたしたちは肉体としては死ぬのですが、キリストによって与えられるいのち、永遠のいのちの中で生かされるのです。そして終わりの日には復活するのだ、とキリストは語るのです。
6章全体を読むと、22節から48節まででは、「信じる」という言葉が繰り返される。神がお遣わしになった者を信じること、それが大事なことだと語られる。
しかしさらにそれより進むと、「食べる」「飲む」という言葉が繰り返されていくのです。キリストの肉を食べ、キリストの血を飲む、つまりキリストを信じて、キリストをいただく、食べる、飲む、と導かれていく。それがキリスト者ということなのだとヨハネ福音書は語るのです。
わたしたちはこうした箇所を読むと、「ああ、ここは聖餐のことを語っているのだな」とすぐに思うでしょう。確かにここには後の聖餐へと繋がるものがあることは確かです。そのことを思いつつ、ここでの主イエスのみ心をもう少し受けとめていきたいのですが、それは信じるということ、その中で食べるということへと主の言葉のことです。先ほど触れた主イエスの伝道のはじめ、荒れ野の誘惑での主の言葉、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」それは、まさに神の言葉がこのわたしの中で、「血となり肉となる」と日本語にもあるように、言葉が血肉化するということでしょう。これはたんなる観念ではない。
キリストという神の言葉、いのちのパン、これを食べる、そこに進んでいくのです。しかしそれだけではない。
ここにあるのは、信じるという態度、行動、それはいつも申し上げるように、わたしたちの態度行動にアクセントがあるのではなく、キリストの信実に出会い、キリストの信実に触れ、キリストのまことに感謝感動していく、という向こうから来るものを受けることです。けれどもそれは信じるというこちらの態度にも深くかかわることです。
食べるという場合、もちろんわたしたちが口を開けて嚙み、飲み込むという態度があるにせよ、中心にあるのは食物が体内に入るということです。飲み物が体内が入るということ。そしてその食物が飲み物がわたしの体内においてまさしく生きて働くのです。それはわたしの考えや、判断によるのではなく、まさしく食物そのものが生きて働く、とどまる、血肉化していく。そこでは人はただ受けるのみ。ただ感謝して受けるのみ。しかしそこにキリストとの深いとしか言いようのない交わりがあるのです。
キリストとわたしたちは出会う。そこには当然自分の意志や判断もあるでしょう。そしてこの方の言葉を聞き始める、この方のわざに触れる。十字架の出来事も含め、この方のなさったわざに出会う。さらに言葉に聞き、自分の知力や理解力を動員して、自分なりに受けとめようとする。信じる、というわたしの行為行動も動員される。だがそれで終わりなのではない。神の言葉たるキリストを食べるのです。いのちのパンであるキリストをいただくのです。その血に与るのです。キリストご自身が、言葉を語り、そのわざを示されただけでなく、ご自分の身体を差し出されたからです。差し出して十字架にかかり、神によって甦らされたその体をわたしたちに差し出されたから、わたしたちはその体をいただくのです。いのちのパンとしていただくのです。そしてそれによってキリストがわたしたちの中にとどまり、血肉化していくのです。それがわたしたちに与えられているキリストとの交わりなのです。わたしたちには、もちろんその結果、成果を測ることなどできない。ただ、その交わりに招かれ、それによって永遠のいのちに活かされるというのです。
パンの奇跡は、このパンによる永遠のいのちへの招きのしるしだったのです。