教会暦・聖書日課による説教
2025.4.13.枝の主日礼拝説教
聖書:ヨハネによる福音書16章12-24節『 苦しみは喜びに変わる 』
菅原 力牧師
受難週の始まりの主の日、枝の主日を迎えました。今朝与えられた聖書の箇所はヨハネによる福音書の16章にある主のみ言葉です。
さてこの16章は14章から始まる主イエスの決別説教の最後の部分を構成しています。主イエスは十字架にかかる前に、このような決別の説教をなさったというヨハネ独自の伝承を受けた記述なのです。ご自分が間もなく十字架にかかる、そこで主はたんなる別れの挨拶をした、というようなことではなく、このことはどうしても伝えておかなくてはならない、ということを語り告げたのです。
12節「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなた方は今はそれに堪えられない。」弟子たちに対して「今は堪えられない」といっているのは、今はあなた方は自分の知識や理性や、自分の持てるものだけで受け取ろうとするから受け取れない、ということです。「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなた方をあらゆる真理に導いてくれる。」ヨハネ福音書では聖霊のことをさまざまな言い方で表現します。助け手、と訳されたり、弁護者と訳されたりする元の言葉のほかに、ここでいわれている真理の霊のように。いずれにせよキリストが十字架にかかり神の御許に行かれた後送られて来る聖霊のことです。この聖霊がわたしが去っていた後にあなた方に神から送られ、あなた方を真理のうちに導いてくれるのだ、というのです。今は堪えられない、しかし聖霊があなた方を真理へと導いてくれる、だから今、わからなくとも大切なことを語っておくのだ、そう主イエスは言われたのです。
16節で主は「しばらくすると、あなた方はもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」と言われました。弟子たちはこの主イエスの言葉は何を語っているのだろうかと疑問に思い、互いにあれこれ言い合っていました。少し前のところで、わたしが父のもとに行き、と言われた言葉も含め、見なくなるとか、しばらくすると見るようになるとは、いったいどういうことなのだろう、聞きたいけれど言い出しにくいということだったのでしょう。
キリストを見なくなるというのは、十字架にかかって死んで、この世からいなくなることを指しているのでしょう。そうなれば、あなた方は泣き悲しむが、世は喜ぶ。実際イエスを殺したがっていた人々、十字架にかけろと叫んだ人々がいたのですから、世は喜ぶのです。あなたがたは苦しむ。だが、その苦しみは喜びに変わる。再びキリストを見ることになるから、ということです。
弟子たちはいずれにしても主イエスの言っておられることがわからなかった。わからないのです。人間の考えでは。堪えられないのです。
そもそもこの時弟子たちは主イエスが十字架にかかることも、よく理解していない。なぜ主が十字架にかかって死ななければならないのか、まったく分からない。まだ予想もしていない。いわんや、その後のことなど、わかりようもない。しかし主イエスは敢えて、この決別説教で、大事なことを語るのです。それは、やがて弟子たちが聖霊の働きを受け、真理の霊によって真理のうちに導かれていくときのためなのです。
その時、主イエスの言われた「しばらくすると、あなた方はもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」という言葉をわたしたちを真理へと導く言葉として聞くことができる、ということなのです。
整理してお話ししたいと思います。16節の言葉を、まず、復活直後の話と受け取る人がいます。そして次に、いやこれは聖霊降臨、ペンテコステの時の話だ、と受け取る人がいます。そして、いやいやそうではない、これは終末の時の光景を物語っているのだ、という受けとる人もいます。これは三つのうちのどれが正しいという話ではなく、すべてを含んだ主イエスの言葉なのだと思います。今申し上げた理解は時系列というか、時間の順序に即した理解です。このどの場面でも、キリストを見るようになる、ということが起こっていくのです。
しかしキリストは、この三つのことだけをここでいいたかったのではない。というのも、そもそもこのヨハネによる福音書を最初に読んだ読者たちは、この三つの時系列で言えば、どこにも今いない。主が三日目に復活したときも、そこにはいないし、聖霊降臨のあの時、使徒言行録に記されているあの場面にいない。そして終末のまだ来ていないのだから、いない。どこにも読者はいない。しかし、ここでキリストが言われていることはたんなる時系列の話ではない。それはヨハネによる福音書全体を読むことでわかってくることですが、そもそも神から送られる聖霊、真理の霊は、使徒言行録が記すあの時だけに注がれたものではない。キリストがこの地上から見えなくなり、父のもとへ帰られた後神から送られる神の働きです。それはすべての時において生きて働く聖霊なのです。
それはわかりやすく言えば、この地上で見えなくなったイエス・キリストと、今を生きるあなたとを出会わせる神の働きです。
今、21世紀を生きているわたしたちも、誰一人として、地上で生きるイエス・キリストは見ていない。十字架に向かって歩み続けるキリストのお姿を、肉眼では見ていない。にもかかわらず、聖霊は、真理の霊は、このわたしをイエス・キリストと出会わせてくださり、キリストを見るものとさせてくださる。
と同時に、不思議にも、聖霊の働きは、真理の霊であって、真理へとわたしたちを導くのです。真理とは、イエス・キリストその方です。
「わたしは道であり、真理であり、いのちである」とキリストのこの福音書で語っています。イエス・キリストその方が道であり、真理であり、いのちなのです。
今、いのちということについて言えば、わたしたちはふつういのちと言えば、自分のいのち、人のいのち、というふうにいのちは自分に属するものだと考えている。だから自分のいのちを生き、自分のいのちを全うして死んでいくとも考えている。けれどキリストがわたしたちに与えるいのちとは、神と繋がったいのち、この自分のいのちは神の与えるいのちと繋がったいのちであって、そのいのちが与えられる。だから当然死んで終わりではない。自分だけのものでもない。しかしそれは聖霊によって知ることができるようになるもの、聖霊を受けなければ今は堪えられない。そういうものなのです。
聖霊は、わたしたちを復活の主と出会わせ、この方が救い主であることを示し、この方によってわたしはいま罪赦され、救われていること、そして神につながるいのちを与えられていることを今ここでわたしに明らかにするのです。さらに、わたしは終末の救いにも触れていく。終末はまだ知らないけれど、終末の救い完成の喜びに触れていく、今ここで。キリストが16節で言われていることは、これらすべてを含んだ、「しばらくすると、あなた方はもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」なのです。
とすれば20節以下の言葉も膨らみを含んでいきます。あなた方は泣き悲しみ、苦しむというのは、主イエスが十字架で死んで悲しんだ時のことだけではない。わたしたちがこの人生で、泣いたり、悲しんだり、苦しんだりするそのすべてのときを含んでいるのです。わたしたちの人生が苦しみや悲しみに満ちている。それはまさにキリストがそのために十字架にかかられたように、人間の痛みや、悲しみ、涙をキリストが負ってくださったということでもあります。キリストがここでいわれるのは、しばらくするとわたしを見るようになるのです。聖霊に働きに導かれて、わたしたちはこの人生の只中において、涙や、悲しみや、苦しみの只中であっても、聖霊の働きのうちに、真理の霊の働きのうちに、主イエス・キリストへと導かれ、イエス・キリストと出会い、キリストを見るのです。その時その苦しみは喜びに変わるというのです。
22節「このように、あなたがたにも、今は苦しみがあるがある。しかし、わたしは再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」わたしたちが生きている今は、さまざまな苦しみがある。悲しみも、涙もある。しかしそのような中にあっても、聖霊の働きは、あな田形をイエス・キリストに出会わせてくださる。そして喜びを与えてくださる。喜ぶものとされる。喜びの中に生きるものとされる。
23節24節には、あなた方がわたしの名によって願うなら、願いなさい、という言葉が出てきます。求めるという意味の言葉です。このキリストの語る言葉、今はよくわからない、受けとめられなくとも、聖霊の働きを信じていきなさい。あなたが苦しみの中にあっても、悲しみや涙の中にあっても、キリストの名によって求め続けていくなら、聖霊の働きにおいて、真理の霊の働きによってあなたは今、キリストに出会うものとされていく。そこで、キリストの救い、キリストの恵み、いのちを受けるものとされる。喜びを与えられ、喜びに包まれるものとなる。そのことをあなたの人生で繰り返していきなさい。キリストと出会った後も、苦しみや、困難があるだろう。しかしそこでもまた求め、聖霊の働きによって新たにキリストに出会い、喜びを受けるものとされていきなさい。
十字架にかかられる直前、主イエスはわたしたちにこう語られたのです。感謝のうちに信仰を持って、このキリストの言葉を深く、自分の人生で味わっていきたいと思うのです。