マタイによる福音書連続講解説教
2025.5.25.復活節第6主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書20章29-34節『 見えるようになる 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所は盲人と主イエスとの出会いが語られ、盲人が見えるようになるという出来事が記されています。盲人と主イエスの出会い、癒されていくという出来事は、マタイによる福音書を読む者にとってこれまで何度も読んできた出来事です。マタイ福音書だけでも実に五度、記されています。そのことはいろいろなことを考えさせられるのですが、まず思うのは、主イエスが地上の日々を歩まれたとき、実に多くの盲人との出会いがあったのだろうということです。目が見えないということは、聖書の時代、手に負えない事柄であったことは容易に想像が付きます。重く重くその人の存在にのしかかっていた。そういう人たちと主は出会っていかれたということです。
主イエスと弟子たちの一行がエルサレムと向かう途上の出来事です。一行がエリコという町を出ていくと、大勢の群衆がイエスについていきました。主イエスの治癒行為、癒しのわざ、またさまざまな奇跡行為、そして主のみ言葉に惹きつけられた人たちが群衆を形成していたのでしょう。「すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。』と叫んだ。」のです。二人はどういう仕方であったかわかりませんが、主イエスのことを伝え聞いていたのでしょう。その主イエスがこの道を通ると聞いて、大声で叫んだのでしょう。ところが群衆は、この二人を𠮟りつけて黙らせようとしました。なぜ黙らせようとしたのでしょう。単純にうるさかった、という理由かもしれません。目の見えない二人にとって主イエスを呼び止めるには、大声を出すしかなかった。だから大声で叫んだ。しかし群衆にとっては、それはうるさいだけの騒音で、群衆にとって邪魔なものだった、ということかもしれない。この群衆とは主イエスについていった人々のことです。弟子たちもこの群衆に含まれているかもしれない。主イエスついていこうとする人々も、大声で叫ぶ盲人の苦しみ、痛みは、受けとめられていない。だが二人は群衆の態度にもひるまず、ますます主イエスに向かって大声で叫び続けるのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」
ダビデの子よ、という呼びかけはユダヤの人々にとって大事な呼称、自分たちを救う者への呼称です。それはユダヤにおける力強いダビデ王のイメージによる呼称です。二人はダビデの子よ、と呼びかけつつ、しかしそれ以上に主よ、と呼びかけています。三度も繰り返し呼ぶのです。
わたしたちの神との関係は、キリストとの関係は、ただ何度でも主よ、主よ、と呼びかける関係なのではないでしょうか。幼い子供が何度でも父や母を呼ぶように、いやそれ以上に何度でも主よ、主と呼ぶ。このわたしを憐れんでください、というほかないわたしをそのままに、ただ主にすがり、誰に遮られようが、誰に何を言われようが、主よ、と呼び続ける。二人の姿を見ていて、あらためてそのことを思うのです。
主イエスは立ち止まり、足を止めて、二人を呼ぶのです。主よ、と呼び続ける二人の叫びを受けとめる主がいるのです。そして「何をしてほしいのか」と尋ねる。ずっと叫び続けていた二人は、自分たちを呼ぶ声を聞くのです。呼び続けるものと呼びかける主の出会いがここに描かれているのです。わたしは今日何度、主よと呼びかけたのだろうか。そして呼びかける主の声を聞いたのだろうか。
主は、何をしてほしいのか、と尋ねられる。不思議な主の問いかけです。目の見えない人に向かって、何をしてほしいのか、と聞くのですから。主はこれまで多くの病人や、目の見えない人、いろいろな人たちに出会ってきました。病に苦しむ人たちと出会ってこられた。二人の願いが目を開けてほしいということであることなど重々承知でしょう。それなのに、主はなぜこう問いかけたのでしょうか。
二人は、主イエスと向き合い、自分たちの願いを述べる。「主よ、目を開けていただきたいのです。」当然二人はこう答えたのです。
主は二人を深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちは、見えるようになったのです。主が目を開き、二人は見えるようになった。まさにイエス・キリストの奇跡のわざです。二人の願いは、今まさに叶ったのです。二人は自分の目が見えるようになってしたいことがあったはずです。目が見えないために道端に座り込むしかなかった二人にとって、自分の足でどこへでも思うがままに行ける。普通の生活ができる、家族の顔が見える、自分でも食事も作れる。見えるようになってしたいことは山ほどあったでしょう。
ところがまことにまことに驚くべきことに、二人は主イエスに従った、というのです。目を開けていただいた、二人は主に従った、というのです。わたしたちはここを読んで、二人が目を開けていただいたその奇跡に驚く。しかしそれ以上に、目を開けていただいた二人が、主イエスに従って歩み始めたことに驚く。
二人は主に「何をしてほしいのか」と問われ、自分たちが一番してほしいこと、「目を開けてほしい」と願った。そして主イエスによってそのようになった。だがその時二人は、気づいていくのです。自分たちが本当に求めているのは、この方、わたしたちの主、主よと呼びかけたこの方、わたしの苦しみを、わたしの叫びを受けとめ、聞いてくださったこの方、この方に従っていくことなのだ、ということに気づいていくのです。この方に従い、この方と共に歩んでいくこと、それがわたしたちの求めていることなのだ、ということに気づいていくのです。主イエスの「何をしてほしいのか」という問いかけは、二人の願いのさらに奥にある願いを呼び覚ましていく問いであったのです。自分たちの苦しみを受けとめ、自分たちの叫びを聞き、自分たちの願いを受けとめ、救いを与えてくださるこの方、この方と共に歩みたい、という願いを呼び覚ます問いだったのです。
自分の人生において、本当に主と呼びかけ得る、従っていける方、恵みと憐れみに満ちた方と出会い、その方につき従い、共に歩んでいくことこそ、まことのまことの願いであるということを、二人は知り始めているのです。なんという奇跡か。
二人は「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と主に叫んだ。けれどもこの時二人は、憐れんでくださいという言葉、その言葉の持つ奥行き、つまり二人が思っている憐れみと、イエス・キリストが受けとめておられる憐れみとは、奥行きが違う。豊かさが違う。しかし主はその憐れんでください、という二人のことを受けとめて、二人の求めた目を開けてください、叶えてくださった。しかし、主の憐れみはそこにとどまるものではなかった。
ギリシヤ語では、31節で二人が「憐れんでください」といったその憐れみという言葉と、34節で「イエスが深く憐れんで」とある「憐れみ」とは違う言葉が使われています。つまり二人の憐れみと、主の憐れみは、違うものだから、違う言葉で敢えて表現したのでしょう。二人ははじめ、目が見えるようになることが憐れみだと思っていたのでしょう。しかし主は二人を見て、深く憐れんだ、それは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた、という時と同じ「憐れむ」なのです。主イエスは二人を見て、何を憐れんだのか。目が見えないということも、そのことが二人の上に重圧としてのしかかっていることも、見ておられたでしょう。しかしそれだけでなく、を見て飼う者のない羊のように弱り果てている姿をキリストはみて下さっているのです。
しかし二人は今、主よ、主よ、叫び始めているのです。そして主に向かって「わたしたちを憐れんでください」と願っているのです。これは飼い主に向かっての願いなのです。
主はそのような二人を受けとめながら、「何をしてほしいのか」と尋ねたのです。
二人は目を開けてもらうことが願いだった。しかし二人にとって自覚的とは言えなくても、気づかされていく願い、呼び覚まされていく願いがあった。それはこの自分がどなたを主よ、と呼び続け、憐れみを来い、主に従い、主と共にこの人生を歩むということ、そのことでした。「何をしてほしいのか」という問いは、キリストに憐れみを乞いつつ、自分自身が従っていくという自分自身の意志を問う言葉になっていくのです。
先週の聖書箇所で、ゼベダイの息子たちの母が来て、主イエスに願い事をした、という場面がありました。その時主イエスはその願い事を聞いて、「あなた方は、自分が何を願っているのか、わかっていない。」と言われたのでした。胸に響く言葉です。「わたしはわたしが何を願っているのかわかっているのか」と問われているようにも思います。目先のことや、自分の損得や、自分の利益になるような願い事はたくさん持っていても、主に願うべきこと、主にこそ願うことをわたしは知っているのか。
二人の盲人もわかっていたわけではない。ただ二人は、イエスを主と呼びつつ、この方に憐れんでいただく以外にない自分を受けとめていた。そしてこの方に受けとめていただき、この方に癒していただく中で、ただ願い続けるだけでなく、この方に従い、この方と共に歩み、この方を主と仰ぎ続け、この方の与えてくださる憐れみを受けていくことが大事だということを二人は、気づき始めたのです。「盲人たちは見えるようになり、イエスに従った。」