マタイによる福音書連続講解説教
2025.6.1.復活節第7主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書21章1-11節『 ろばに乗る主 』
菅原 力牧師
今朝の聖書箇所は主イエスがエルサレムの町に入っていかれる場面、いわゆるエルサレム入城の場面です。教会暦によれば受難週の始まり、枝の主日に朗読される聖書箇所です。先週読んだ聖書箇所には、主イエスと弟子たちがエリコを出ていくと大勢の群衆がイエスについていった、とありました。その群衆を含む、一行がエルサレムに近づいたとき、主イエスは二人の弟子を使いに出し、こう言われたのです。「向こうの村に行きなさい。するとすぐ、驢馬が繋いであり、一緒に子驢馬のいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。」「もし、誰かが何かを言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」主はそう言われたのです。
エルサレムに入城するに際して、ろばを引いて来なさい、と主は弟子たちに命じられたのです。あらかじめ、準備されていたのかどうか、それはわかりません。ただわたしたちがここで受け取るのは、エルサレム入城にあたっての主イエスの強い意志、ご自分の明確な思いがあって、事を進めようとしておられるということです。
4節は5節は福音書記者マタイによる解説、説明文と言っていい文章です。つまり主イエスがなぜ、エルサレムに入城するにあたってろばを調達しようとされたのか、マタイはここで、主イエスの御意志を明らかにしようとするのです。
「それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。」「シオンの娘に告げよ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」
マタイがここで主イエスの御意志として明らかにしようとしていること、それは大きく二つのことです。
一つは、主イエスがエルサレムに入城される、それは旧約の預言者の言葉の成就、実現なのだ、ということです。主がエルサレムに向かって歩まれること、それは神の御意志であり、その御意志に従って歩む主イエス・キリストの御意志でもありました。と同時に、それは旧約の時代に、預言者によって預言された神の御言葉の実現なのだ、というのです。つまり長い旧約の歴史の中で神の定められた救済の意志があり、それがまさに時満ちて、実現していくのだ、ということがこの5節の預言者の言葉によって明らかにされるのです。これは冒頭の一句がイザヤ書から、そして全体はゼカリヤ書の預言の言葉からの引用です。
もう一つの事、それはその預言内容にかかわることです。もともとこの時代においては、エルサレムのような町では、王や支配者が入城する際、馬に乗って威勢よく入城するということがあったのでしょう。しかし主イエスは馬ではなくろばに乗ってやってくる、子ろばに乗ってやってくるというのです。しかもお読みになってわかるように、ろばと子ろばなのです。正確には雌驢馬と子驢馬。二頭もいて、主イエスはどうされたのか。いずれにせよ主イエスはろばに乗って入城される。その意味が預言には語られているのです。「へりくだって」「荷を負う」という言葉が大事な言葉としてゼカリヤ書に記されているのです。
「へりくだって」というのは新共同訳聖書では「柔和で」と訳されていました。口語訳聖書でも、「柔和なお方で」と訳されていました。元の言葉は柔和という意味で、この言葉は主イエスを根本のところで規定していく言葉、根源語ともいえる言葉です。「柔和」というのは、優しくて穏やかな様子という意味のほかに、元の言葉では「圧迫されても折れない、したたかな強さ」、という意味が込められています。マタイは、主イエス・キリストという方は、柔和で、荷を負う方だ、というザカリヤの預言に深くとらえられていたのです。荷を負うとは、まさしくわたしたちの荷を負ってくださる方ということです。重荷を負ってくださる方、わたしたちが抱え込んでいる荷物を負ってくださる方なのです。それは突き詰めるとわたしが抱え込んでいるというよりも、わたしという荷ですよ。わたし自身がどうにもならない罪人であって、自分ではどうしようもない荷物そのもの。その荷を負ってくださる方なのです。
ろばは、柔和な動物の象徴だったのでしょう。そしてろばは荷を負う動物の象徴なのです。マタイはこのゼカリヤの預言の言葉の成就こそ、イエス・キリストのエルサレム入城であり、主が弟子たちにろばを調達しなさいと言われたその主の言葉から、直ちにゼカリヤの言葉を想起したのでしょう。
「弟子たちは行って、イエスが命じられた通りにし、ろばと子ろばを引いてきて、その上に上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」
イエスはそれにお乗りになった、という「それ」は何なのかという疑問がここを読んで出てきます。どちらのろばに乗ったのか、二頭に上着をかけて、その上に乗った、というかなり無理のある解釈もありますが、ここでいいたいのは、主はゼカリヤの預言にある通り、二頭のろばを引き、とにかくロバに乗ってエルサレム入り、入城しようとされたということです。
「大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、他の人々は木の枝を切って道に敷いた。」王や身分の高い者たちに対して敬意を払い、こうした行動をとることが当時あったようですが、主イエスは王や高官でもなかった。にもかかわらず群衆は敬意と共に喜びも含め、上着を道に敷いたのです。そして木の枝を切って道に敷いたのです。ここから枝の主日という言葉は出てきたのでしょう。群衆の叫びがエルサレムの町に響きます。
「ダビデの子にホサナ。」ホサナというのはどうぞ救ってください、という意味の言葉ですが、おそらくこの時代には、そうした意味よりも歓呼の叫び、日本語的に言えば、万歳に近い感じだったのかもしれません。
「イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。この騒いだという言葉は、動転した、と訳しても、揺り動かされた、と訳してもいい言葉です。町中に緊張が走り、人々の中で不安や期待や、さまざまなざわめきが起こったということです。「こいつは何者だ」という声がエルサレムの町に起こったのです。
「群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った。」主イエスについてきた群衆、その多くはイエスは預言者だ、だという理解だったことがよくわかります。
群衆はイエスを偉大な預言者の一人として見ていたのです。
直前の9節では「群衆は、前を行くものもあとに従うものも叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」主イエスに対して、ダビデの子と呼んだり、主の名によって来られる方と群衆は口々に叫んではいます。それなのに、なぜ主イエスを救い主としてではなく、預言者として理解していたのか。
しかし、群衆はダビデの子という呼称で、さまざまなイメージを持っていたのです。イスラエルの将来を切り拓く約束の担い手であるとか、何らかの解放者であるとか、メシア待望の礎のようなイメージを持っていた人たちもいた。さまざまなイメージを、ある意味自分勝手にダビデの子という言葉に託していた。同じように主の名によって来られる方、というのも、さまざまなイメージをそこに投影していた。だが、問題はいつの時代でもそうであるように、人は自分勝手なイメージを救いに関して持つものだけれども、神が語りかけ神が示される救い主の姿に心を向けようとはなかなかしないということです。
ここでマタイがゼカリヤ書の、イザヤ書の預言の言葉を語るのは、わたしたちの思いではなく、わたしたちのイメージではなく、神が語り続け、示し続けられた、神が遣わされる救い主の姿、柔和で、荷を負うロバに乗ってやってくる救い主の姿、へりくだった主の姿です。
群衆は、そして弟子たちは、この救い主の姿を受けとめることができなかったのです。だからこそ、エルサレム入城からわずか数日後の十字架の前で主イエスの前を立ち去っていき、逃げ出し、挙句、主イエスを死刑にしろと叫ぶ者たちに加わる者も出てくるのです。
ここで群衆たちは自分たちの何らか理想とする預言者像があり、その預言者像を主イエスに当てはめたのでしょう。自分たちの願望を主イエスに投影しているのです。とすれば、わたしたちにとって大事なことは、主イエスがろばに乗ってエルサレムに入城された、というその事実をしっかり心に刻むことこそが大事だということになります。わたしたちの中にある救い主のイメージとはかけ離れているその姿を目に焼き付けるのです。キリストの柔和で荷を負うというその歩みを理解しようと性急になるよりも、違うという事実の前に立つのです。違いすぎる事実の前に立つのです。この福音書が書きとどめる入城の場面は、まさしく弟子を含む群衆と、主イエスの方向性が全くすれ違っているにもかかわらず、上着を道に敷いたり、枝を置いたり、万歳をしたり、完全にずれている光景なのです。しかし弟子たちも、また群衆の中の一人一人も、やがて、ある時、この光景を思い出して、まったく違っていた、ということに心底気づく時が来るのです。それに心底気づき、信仰によってろばに乗るキリストを受けとめるまでは、この光景を忘れないことが大事、記憶することが大事なのです。
ヨーロッパのプロテスタント教会・福音主義教会では今でもこの枝の主の日、石で作ったろばに乗った主イエス、それはやはり石で作った台車と一体になったものなのですが、それを引いて礼拝堂に向かうという古い習慣があるところがあるそうです。それはまさに、柔和で、荷を負うロバに乗った主イエスの姿を忘れないための、新たな記憶とするための大事なことなのでありましょう。