教会暦・聖書日課による説教
2025.6.8.聖霊降臨祭主日礼拝説教
聖書:使徒言行録2章1-11節『 聖霊に満たされる 』
菅原 力牧師
使徒言行録の1章を読むと、そこに主イエスの復活後から神の御許に帰られる昇天までの様子が簡潔に描かれています。
そしてその中で、主イエスは弟子たちに大事な約束をしてくださるのです。その約束の言葉とは「「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となる。」というものでした。主はこの約束の言葉を語った後、天に上げられていかれたのです。弟子たちはこの約束の言葉の意味が分からないままに、それでもこの約束の言葉を受けてその言葉に踏みとどまって約束の言葉の実現を祈りつつ待っていました。その弟子たちの数は120名ほどでした。
五旬祭と呼ばれるユダヤの祭りがありました。ユダヤの三大祭の一つで、過越の祭りから50日目でペンテコステ―と呼ばれる祭りです。
不思議なことが起こります。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した。」
全く不思議な出来事です。読んでよくわからない、という印象を持たれた方も多いと思います。いうまでもなくわたしたちの経験の中にはないことだからです。
しかし経験の領域外だから無関係ということではなく、わたしたちを超えた神の働きの前で、あらためて神を仰ぎながら、み言葉に聞いていきたいと思います。
ここでまず、突然激しい風が吹いて来るような音が起こり、弟子たちのいた家中に響き、次いで炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったというのです。聖霊降臨、聖霊が弟子たちに降ったその時、弟子たちの内面で大きな変化があったとか、キリストをあらためて心の中で深く受けとめたというようなことではなく、弟子たちの外からの働きがあったことを聖書は告げています。風が吹いてくるような音といい、炎といい、わたしたちの中からのものではない。それが上から与えられて、一人一人の上にとどまった、ということは神からの働きは神を信じ、約束の言葉を信じていた人たち皆に働きかけると同時に、その一人一人に与えられたということです。そしてその一人一人が聖霊に満たされたのです。しかしさらに驚くのは、その聖霊を受けた一人一人が、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した、ということなのです。何を語り始めたのか、と言えば、11節にあるように、「神の偉大な業」なのです。それはすなわちイエス・キリストの十字架であり、復活であり、昇天なのでしょう。
エルサレムの町にはいろいろな国に住むユダヤ人が、この祭りのために集まっていました。9節から11節にあるように、いろいろな地域、国から人々が集まっていました。120人もの弟子集団が自分の外からの力、神の働き、聖霊の力を受けて、神の偉大な業をさまざまな言語で語り始めたというのです。聞いていた人たちは驚きました。この120人もの人たちが着ているものや身なりからはガリラヤの人と思える人々が、多くの国から集まっている人々の言語で語り始めたのですから、とんでもなく驚いたでしょう。
たくさんの言語で語り始めたということもさることながら、120人の者たちが「神の偉大な業」を語り始めたことも驚きです。
聖霊を受けて、わたしたちは自分の心が満たされるとか、自分の心に平安が与えられるとか、精神性が深められるとか、そういうことが起こっていったとは語られていない。語る者とさせられた、それも自分のことではなく、神の偉大な業を語るものとなっていったというのです。
かつて弟子たちは主イエスに向かってあなたが王座に就いたら、わたしを右に座らせてください、左に座らせてくださいと言っていた。あるいは、ご一緒なら牢に入って死んでもいいと言って自分の力を誇示していた。その弟子たちがここで自分のことではなく、「神の偉大な業」イエス・キリストのことを語り始めたのです。主が昇天される前に言われた約束の言葉、「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となる。」あの言葉が、実現してゆくのです。聖霊はあなた方に力を授ける。その力は、キリストを宣べ伝える力。証人となる力。神の偉大な業を語る力なのだということです。そしていろいろな国の言葉で語り始めたということは、この世界の隅々まで、福音の言葉が宣べ伝えられていく、ということの象徴なのでしょう。
そしてここで受け取ってべきは、聖霊を受けて語り始めた弟子たちの言葉が、直ちに人々に受け入れられたわけでも、多くの支持者を集めたわけでもなかったということです。むしろ「人々は皆、驚き、戸惑い、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。」という反応であり、「あの人たちは新しい葡萄酒に酔っているのだ」と言って嘲る者もいた」という反応だったのです。偉大な神の業について語っても人々は納得してくれたわけではなかったのです。
しかし弟子たちは語らなければならないことを語った、ということであり、それが聖霊の力なのだと聖書は語っているのです。
これが使徒言行録が報告する聖霊降臨日の出来事の始まりでした。聖霊降臨の出来事はあまりにも不思議な出来事です。聖書には、不思議な出来事がたくさん出てきます。わたしたちの常識や、経験や理性を超えた出来事が出てきます。福音書にはいろいろな奇跡が記されていますが、それらの中でも最も多いなる奇跡は、イエス・キリストの降誕であり、イエス・キリストの復活です。
ただ、これらはキリストの出来事です。不思議ですが、神の独り子において起こる出来事であって、神とキリストにおいておこるわざです。ところが聖霊降臨は弟子たちを巻き込んでいく出来事です。ただキリストにおいて起こる出来事というのではなく、弟子たちも変えられていく。語るものとされていく、キリストを宣べ伝える者とされていく。そういう不思議さがあります。
今日読んだ聖書箇所に続く箇所ではペトロが人々に対して説教を始めていくのです。不思議と言えばあまりに不思議です。過ちや、躓くことの多い一人の者が用いられ、聖霊の働きの中で用いられていくのです。一人一人キリストの証人となっていくのです。そういうと、わたしは明確な聖霊体験もなければ、聖霊によってキリストの証人となっている実感もあまりない、という人がおられるかもしれません。確かにこの使徒言行録の2章に示されるような、風の音も炎のような舌も、見ていないかもしれない。しかし聖霊は、このときはじめて与えられたわけではなく、天地創造の時からこの世界は聖霊の働きの中におかれていた。「神の霊が水の面を覆っていた」のです。けれど、主イエス・キリストが復活し、昇天して、聖霊はこのキリストを証しする霊として、キリストの十字架と復活を証しする霊として働くのです。それは終末に至るまで働き続ける神の霊であり、弟子たちがそうであったように、キリストに繋がれる霊、と言っていいのです。自分のことばかりだった弟子たちがキリストに結ばれて、この自分のために神がキリストにおいてなしてくださったわざ、十字架と復活の恵みのわざの中に自分があるのだということを聖霊は受け取らせるのです。キリストに繋がれるとは、キリストの救いの中にあるわたしはある、ということです。聖霊はそのことを一人一人に受けとらせる力なのです。聖霊が自分に注がれているという実感がなくとも、キリストに繋がっている自分、キリストの救いの中にある自分、洗礼を受けている自分、そこにはもうすでに十分洗礼の働きが注がれてきたし、今も注がれているのです。
キリストの降誕も、キリストの十字架も、キリストの復活も、確か神とキリストとの関係における出来事で、言ってみれば私たちの外で起こった出来事です。
そして先ほど聖霊降臨は、弟子たちを巻き込む出来事だったと申し上げました。それはどういうことかと言えば、わたしたちの外で起こった出来事が、わたしのための出来事であり、わたしたちのための救いのわざだった、ということを聖霊はわたしたちの内に明らかにする力なのです。
キリストの十字架も復活もわたしと無関係に起こった出来事ではない。ただわたしが救われるために、いのちを得るために、神がキリストにおいて起こしてくださったわざなのだ、ということを聖霊はわたしたちの内に示し続けてくださるのです。
聖霊降臨において、キリストの出来事と、わたしとはつながれていくのです。
だから弟子たちは、神の偉大な業を語り始めたのです。
わたしは救われてある、わたしはイエス・キリストの十字架と復活の恵みの中にある、ということを語り始めていったのです。
神は聖霊降臨において、わたしたち一人一人とキリストをまこと繋いでくださった。そしてわたしたちの心のうちに、魂のうちにキリストの恵みをあらわにして下さった。今わたしたちがこうして、キリストを信じる者とされていること、教会に招かれていること、そのことの中にすでに聖霊は豊かに働いています。同時に、多くの先達たちのキリストの証人としての歩みの中で、世界中に福音が伝達され、わたしたちが今在ることを、感謝のうちに受けとめていきたいと思います。