教会暦・聖書日課による説教
2025.6.22.聖霊降臨節第3主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書21章12-17節『 わたしの家は、祈りの家 』
菅原 力牧師
主イエスはエルサレムに入城されました。ろばの子に乗って、エルサレムに入城されました。
それから、主イエスは神殿の境内に入っていかれたのです。当時の神殿はヘロデ王が拡張整備したもので、大変大きなものでした。神殿はその門をくぐると、広大な前庭があるのです。庭と言っても植物が植えてあるような場所ではなく、石畳の広い場所があるのです。そしてそこは「異邦人の庭」と呼ばれていました。それは神殿の本殿、拝殿に近づくことができるのは、ユダヤ人だけ、ということがあったためで、ユダヤ人以外の人たちは、ここまでしか入れなかったのです。ですからユダヤ人以外の人は、日本の神社でいうところの本殿、拝殿にはいくことはできず、ここで礼拝することになっていました。
主イエスは神殿の境内に入り、この異邦人の庭で予想外の、驚くべき行動に出られたのです。それは「そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を覆された」という行動でした。言葉で出ていくように、と言われたというのではなく、直接的な行動をとられたのです。こうした行動は後にも先にもこれ一度限りで、それだけに驚かされるのです。
異邦人の庭と呼ばれるこの場所には、両替人や犠牲の生き物を売る商売人が店を出していました。両替人は神殿で神にささげる献金はシェケルという貨幣でなければならないという規定があったので、各自ここで両替をする必要があったのです。また犠牲に献げる生き物、羊、山羊、鳩などなのですが、羊や山羊をささげられるのはお金のある人たちで、多くの人にとって鳩でした。しかし犠牲に献げる生き物は、いろいろなルールがあり、傷のないもので、献げる前にチェックを受けなければなりませんでした。そこで直接鳩を持ち込んで、ダメと言われるのを恐れて、ほとんどの人はこの異邦人の庭で買っていたのです。ここでの商売は、もちろん勝手に店を出していたわけではなく、神殿を管理する祭司長たちの許可を得て、公認され、店を出していたのです。当然そこでは商売人と祭司長たちの相互の利益が大きく絡んでいたでしょう。
確かにその商売は公認されていたのです。
主イエスはその商売人たちを追い出すというある意味でまことに過激な行動に出られた。それはなぜだったのでしょうか。
主イエスはその行動の後こう言われたのです。「こう書いてある。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなた方は、それを強盗の巣にしている。」
この二重かぎ括弧の部分、これは旧約聖書のイザヤ書の引用ですがここでわたしというのは、神さまのことです。つまりわたしの家、すなわち神殿は、祈りの家と呼ばれる、と神が言われたということです。
神殿という言葉があらわすように、そこは神の家だと言われました。しかしそれはわたしたちが一軒の家に住んでいるのと、神がそこに住んでいる、というのとは違います。神はこの世界を超えてある方です。けれど、この神殿において、神は神を礼拝する者たちと出会ってくださる。出会いの場であるということです。
祈りの家と呼ばれる、という時の祈りとは、わたしたちが普通に言うところ祈り、ということを含みつつ、礼拝という意味で使われている言葉です。したがってここで神は、わたしの家は、礼拝の家と呼ばれる、と言われた。まさしく礼拝において神は礼拝する者たちと出会ってくださる、それが神殿なのだ、と主イエスは言っておられるのです。
ある意味、あたりまえのことを、当たり前に言っておられる。
ユダヤ教の礼拝において犠牲の献げものは必須であっただけに神殿での商売も必然性があったということになります。それだけに主イエスのなさったことは、大きな波紋を投じたでありましょうし、反発も、怒りもかったでしょう。
なぜ主イエスはこのような態度をとられたのでしょうか。「あなた方はそれを強盗の巣にしている」、という言葉も、旧約聖書の引用なのですが、神殿という礼拝の場、神と出会う場を商売の場にしている、というユダヤの神殿に対する主イエスの怒りの言葉だったのでしょうか。
今わたしたちが目にしている光景は、主がエルサレムに入られて、すぐの光景です。つまりこの出来事は主のエルサレム入城という一連の出来事の中で受け取る必要がある。もう十字架は目の前まで迫っていました。主イエスはそのことを深く自覚しておられたでしょう。先々週の礼拝で聞いたこと、21章の最初の部分、主イエスはゼカリヤの預言の言葉の通り、子ろばに乗ってエルサレムに入城された。群衆はそれぞれ「ダビデの子にホサナ」と言って口々に主をほめたたえた。しかしそれは、十字架の主を知る由もない、自分の勝手に思い描く解放者のイメージをその言葉に託していたのだ、ということを聞いてきました。周りの者たちは、弟子たちを含め主イエスのこれから歩もうとする道に目を向けてはいませんでした。その中で、主は子ろばに乗って入城することで、ご自分のこれからの道のりを示されました。そこで大事なことは「柔和」ということでした。へりくだり、ということでした。それが十字架へと繋がっているのです。しかしそれは象徴的な行為であり、その時そこに居合わせた人々は受けとめることができず、むしろ人々の歓呼の叫びとも噛み合うものではありませんでした。
今日の場面での行動は、行動だけで見れば、子ろばに乗って入城してこられた主イエスの行動とはずいぶんかけ離れたもののようにも見えます。柔和とか、へりくだり、ということとも違うようにも見えます。
しかし主イエスの視線が十字架に向かっていたことを思うと、ここでも主は何らかの象徴的な行動をとられたのだ、と思わされるのです。主イエスは、十字架の死によって人々が動物の犠牲、生き物の犠牲を買い取って、差し出す必要がなくなる、ご自分の犠牲の死により、羊や山羊や鳩を差し出す必要がなくなるその時を見つめておられた。主イエスによる救いの時、人々は自分で差し出すものによってではなく、神の独り子の一度限りの犠牲によって、贖われる。わたしの罪もこの十字架によって負われていく。人々は、キリストの十字架の死を経験して、犠牲ということの意味が全く変わっていくことを、その時経験していくのです。礼拝のたびごとに、羊や山羊や鳩を差し出して神の怒りを宥める犠牲ではなく、人間のすべてを負い、罪を負い、ご自身をささげられた独り子の十字架によってわたしたちの罪は赦される。もうわたしたちから何かを差し出すのではなく、ただキリストの恵みの御わざを受け、感謝して、その喜びのうちに神を礼拝できる、そのような恵みの道が拓かれる。わたしたちは十字架によってやがて知らされるていくのです。
キリストが神殿で商売人を追い出した、それはまさに、もう神を礼拝する場においていらないものだからでしょう。必要ないのです。神と出会うそこで必要なのは、キリストの恵みのわざだけなのです。確かに商売人の追い出しという行動はそれ自体激しいものです。しかし神の独り子がご自身を差し出して、贖いの犠牲となり、恵みの道をわたしたちに与えたまう、ということ、それはもう、これまでの動物の犠牲を、生き物の犠牲を差し出す、というような礼拝を一掃するのだ、ということを主はこのような形でお示しになったのです。象徴的な行動と言いましたが、まさしく、神殿に居合わせた者たち皆の心に、これは何なのだ、なぜこのようなことを、激しく与えた。
そして、子ろばに乗っての入城と共に、この異邦人の庭での行動は、十字架と復活の後に、イエス・キリストの恵みの御わざを指し示すものとして受けとられていったのです。
境内には目の見えない人や、足の不自由な人たちが主イエスのもとにやってきて、主イエスによって癒されたことが記されています。また子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいました。祭司長たちや律法学者たちは、イエスが悪霊に取りつかれて、悪霊の力でさまざまな奇跡を起こしていると受けとめていました。したがって、子どもたちのホサナ(どうぞ救ってください)というような叫び、讃美は赦しがたいものだったでしょう。実際、人々の主イエスへの期待は、さまざまだったでしょう。
しかし主イエスは十字架に向かって歩んでいかれる。人々の思い、思惑に関わらず、十字架への道を歩んでいかれる。それは、人々にまこと礼拝の道を開くものであり、一人一人が、ただキリストの十字架の贖いと、赦しの中で、神を礼拝し、神と出会い、神の恵みを受けて生きるための主の歩みでした。そこで、体の不自由な者も、小さなものも、自分の力に頼っているものも、おごり高ぶっているものも、みなキリストの恵みによって救われ、神を礼拝し、神と出会い、神の愛の中で生かされていく、その道をわたしたちに与えられるため、主は十字架に向かって歩んでいかれるのです。