教会暦・聖書日課による説教
2025.7.20.聖霊降臨節第7主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書21章33-46節『 葡萄園のたとえ 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所は先週の主イエスが語られたとえに続く話です。「もう一つのたとえを聞きなさい。」と主イエスが言われている。つまり先週のたとえ話に続く、もう一つのたとえ話ということなのです。語りかけられている相手は、祭司長や長老たちと言っていいでしょう。そもそもこの話のきっかけは、主イエスがエルサレムの神殿の境内で商売人たちを追い出した、それを祭司長や長老たちが、「何の権威でこのようなことをするのか」と問い質したことから始まっていたのでした。その最初のやり取りの中で、主は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われた。そう言われたのですが、主イエスは二つのたとえを、祭司長や長老たちに語られたのです。主イエスという方の生きる姿がよく表れています。
一つ目のたとえは先週聞きました。それに続くものとして今日のたとえが語られているのです。
「ある家の主人がぶどう園を造り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらをたて、これを農夫たちに貸して旅に出た。」葡萄園が舞台になっているたとえ話です。主人が造ったぶどう園を農夫たちに貸して、つまり小作人に託して、旅に出たというのです。(小作人というのは土地を持たない農民で、地主の土地を借り、一時的に雇われて働いた人たち)葡萄園はユダヤの人々にとって最もなじみ深い農場であり、最も身近なものでありました。
「収穫の時が近づいたとき、収穫を受けとるために、僕たちを農夫のところへ送った。ところが、農夫たちは、その僕たちを捕まえ、一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。また、前よりも多くの僕たちを送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。」確かに身近な題材によって語られているたとえ話なのですが、この葡萄園で起こったことは、尋常ならざることで、驚くべき内容です。主人が収穫を受けとるために送った僕たちを農夫たちが袋叩きにしたり、殺したりした、というのですから、驚きです。さらに主人は一度ならず二度まで僕を送り、結果同じようなひどいことになったのです。
「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。」ところが農夫たちは、相談のうえ、その息子を捕まえ、葡萄園の外に放り出して殺してしまった、というたとえばなしなのです。残酷というだけでなく、すさまじい話です。しかしわたしたちはすでに十字架を知っているので、このたとえ話が、喩えというよりもある種直截にイエスの十字架とイスラエルの歴史を物語っているように、たとえが迫ってくるよう受けとれるのです。
つまり一つ一つの登場人物や物を具体的にあの人この人に当てはめて読んでいくという読み方です。アレゴリカルな解釈です。葡萄園の主人は神さま。主人が造り備えた葡萄園はイスラエルの民、農夫たち・小作人はイスラエルの宗教的な指導者、僕たちは神がイスラエルに遣わした預言者、そして主人の息子はイエス・キリスト、という具合に当てはめて読むのです。そうすると、息子を捕まえて、葡萄園の外に放り出して、殺してしまった、というのはまさに十字架予告で、このたとえがどうしてこんなに残酷なのか、リアルに迫ってきます。
けれど聞いている者たちは、自分に迫ってくるリアルなものとは、はじめ受けとっていませんでした。このたとえ話に続いて主イエスがこう問いかけるのです。「さて、葡萄園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。」と問うのです。するとこのたとえを聞いていた祭司長や長老たちは「その悪人どもをひどい目に合わせて殺し、葡萄園は、季節ごとに収穫を収めるほかの農夫たちに貸し出すに違いありません。」と即答するのです。自分たちがこのたとえ話に該当するなどとは露だに思わず、答えたのでしょう。その彼らに向かって主イエスは詩編の言葉を引用して語りました。「家を建てる者の棄てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議なこと。」
家を建てる者がこれはいらない、と言って棄てた石、それこそが家を建てる要の親石とされた。すなわちいらないと言って捨てたもの、棄てられたもの、棄てて十字架にかけた方こそがわたしたちの救いの要であるのだ。これはすべて神のなさる業だ、というのです。キリストは、ここで、ご自分のことを神の息子であることを鮮明に語られ、その息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまった人々がいること、そしてそれが、主人から葡萄園を託された小作人、農夫たちなのだ、と語っておられるのです。
そしてこんなひどいことをする、こんな残酷な仕打ちをする者たちを主人はどうするのかと尋ねて、その悪人どもをひどい目に合わせて殺し、葡萄園は他の者たちに貸しだすに違いない、と祭司長たちに言わせているのです。
祭司長やファリサイ派の人々(ここで突然のようにファリサイ派が出てくるのですが)このたとえがまさに自分たちのことを言っているのだ、ということにこの時ようやく気づくのです。そして時間差で頭に来るのです。怒髪天を衝く、という感じだったのではないでしょうか。すぐさま主イエスを逮捕しようと思った、だが、群衆を恐れたのです。
さて、このたとえは、確かに自分を取り囲んでいる祭司長や長老たちに向けて語られている、という面があると同時に、他の面もあるのです。
この葡萄園は主人が造ったものです。垣を巡らし、搾り場を作り、主人が丹精込めて造ったもの。それが神がイスラエルを選びに導き、支えてこられたその歩みを含め、イスラエルの民に重ねられているのです。43節には、いきなり神の国という言葉が出てきますが、これが葡萄園のことだというのはわかります。農夫たちの悪事に対して、この葡萄園・神の国は取り上げられる、そして御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる、と主は言われるのです。この福音書の8章で異邦人のすぐれた信仰に対して御国の子らは、外の暗闇に放り出される、と主が言われた箇所がありました。ここでいう御国の子らとは、神さまの恵みと選びの中にあると思っている人たちのことユダヤ人を指しているのですが、21章でもその御国の子らが神を退けるなら、神の国、神の支配は取り上げられる、と主は言われたのです。そして神の支配はイスラエルではなく別の民に与えられる、というのです。
それはどのような民なのか、と言えばユダヤ人とか、異邦人というカテゴリーではなく、「御国にふさわしい実を結ぶ民」だと主は言われるのです。鍵となるのは、「ふさわしい実を結ぶ」ですよ。この言葉で繋がっているのです。今日の聖書箇所、日本語訳では少しわかりにくいかもしれませんが、34節の収穫の時が近づいたとき、収穫を受けとるために、そして41節の季節ごとに収穫を収める、という具合に収穫という言葉が出てきます。これは実がなる時、実を結ぶとき、果実の時、というのが元の言葉です。いちじくの木を見て、葉の他何もないのをご覧になった主が、実を結んでほしい、という願いを持っておられたことをわたしたちは聞いてきました。そして実を結ぶとは、もうこれまでも何度も聞いてきたように、わたしたちが立派なクリスチャンになるとか、努力して自分の持てるもので何事か為すというようなことではなく、悔い改めて、神の方に向き直って、神の言葉と恵みを受けとって、神の福音から歩み始める、ということなのです。わたしの力では実を結ぶことはできない、ということを正しく知ることです。
すなわち、神の国は、神の支配は、民族としての誰それというのではなく、悔い改めて神に向き直り、神の福音から歩み始める者に与えられる、と主イエス入っておられるのです。44節の主の言葉は表現は独特なものですが、自分の力や、自分の持てる信仰力で、自分の思いで生きようとする者が、イエス・キリストによって打ち砕かれ、粉砕される、そこから悔い改めの道が拓かれることを語っておられるのです。悔い改めるとは、それまでの自分の生き方在りようが粉砕されるということなのです。
34節に「収穫の時が近づいたとき」という言葉がありました。実がなる時が近づいたとき、ということですが、この言葉、主イエス・キリストが語られたことを深く思いながら読む時に、さらにその言葉の奥に、深い意味が現れてきます。それは、キリストが今エルサレムに入城され、その一歩一歩を歩んでおられる最中の発言として聞くと、これはまさに十字架に近づいたとき、という意味が含意されている。十字架は、悲惨な出来事ですし、痛み苦しみの出来事であり、死という出来事です。しかし同時に、主ご自身がそれを収穫の時として捉えておられる。実の成るときです。まさに身がなる時、救いの実現の時、神の救いのわざが実現成就するとき、神の御わざがなるときなのです。
この言葉がこのたとえの中で語られているのは、神の救いの御わざが実現成就するとき、この時、わたしたち一人一人が神によって打ち砕かれ、悔い改めて神に向き直り、神の救いの御わざから生きる歩みとがこのたとえの中で語られている、ということなのです。わたしたちは主イエスのたとえを、最初に申し上げたように、今登場人物は誰を指す、これは何を指す、という風に読み進みます。しかし、それで収まりきるようなものではない。ひょっとして、わたしも神からの僕を袋叩きにする一人なのかもしれない。神の独り子を殺しかねない一人なのかもしれない。そうかもしれない。
しかし、わたしたちには、悔い改めて、神に立ち帰る、という道がいつでも与えられているのです。自分自身に自分が躓くような時も、悔い改める道がイエス・キリストによって与えられている。それが十字架なのです。十字架はあなたの力ではなく、あなたの頑張りでもなく、あなたの信心でもなく、ただイエス・キリストによる救いのわざによって、あなたは歩き出していくことができる、という神の招き、恵みなのです。
そのことをこそ受けとめて、主イエスの言葉に聞き従ってまいりましょう。