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教会暦・聖書日課による説教

2025.7.27.聖霊降臨節第8主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書22章1-14節『 天の国の招き 』

菅原 力牧師

 先週、先々週に続いて、主イエスのたとえ話が続きます。エルサレムに主が入城されてからの日々の歩みと言葉を見、聞き続けていますが、祭司長や、長老、ファリサイ派に向けての主イエスの話が、たとえ話という形で連続しています。これまで繰り返し申し上げてきたように、エルサレム入城後の歩み、言葉は、深く繋がり、結び合いながら語られ、行動されていることを覚えて読み進んでいきたいと思います。

 「天の国は、ある王が王子のために婚礼の祝宴を催したのに似ている。」そう主イエスは語り始められました。21章のたとえもそうだったのですが、このたとえも、天の国は、たとえば誰か画家の描いた絵画を指して、このようなものだ、というとは違う。王が王子のために婚礼の祝宴を催したのに、似ている、つまり静止画ではないのです。ストーリーのある、動画にたとえられている。そしてわたしたちはその物語、ストーリーの中でこのたとえのメッセージと出会っていくのです。

 それにしても不思議な、ありえないようなことが語られているたとえです。王様が王子の婚礼の祝宴に人々を招いたのです。この時代にあって、王様から招かれるということ自体、極めて光栄なことであり、とても晴れがましいことであったでしょう。ところが家来たちを送り、招待者を呼んだのですが、来ようとしなかったというのです。王様から招待されて、出席しようとしないというだけも驚きです。しかも、日本語からわかりにくいのですが、揃いも揃って、招待者が皆来ないのです。あり得ない。ところがこの王は、なんと別の家来をやって、さらに招待者たちに呼びかけるのです。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり準備ができています。さあ、祝宴においでください。」祝宴に招かれた人たちへの再度の招きなのです。原文では「わたしの食事の用意が」「わたしの牛や肥えた家畜を」となっていて、王の食卓、王の祝宴であることが強調されています。

 ところが招待者たちは、その招きを無視した、というのです。意に介さず、一人は畑に、一人は商売にというふうに出かけていったと。つまり自分の日常の営み、仕事を優先して、その招きを気に留めずに、無視したというのです。それだけでない。他の人々は、王の家来たちを捕まえて侮辱したうえ、殺してしまった。ここまでくると、このたとえの異常さを驚くのです。王は怒って軍隊を送り、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。凄まじい話です。先週読んだたとえと深く重なり合っていることがよく伝わってきます。

 しかしこの王は、これで終わりなのではありません。家来たちに「祝宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから、四つ辻に出ていって、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。」これもあり得ないような話です。王の王子の婚礼の祝宴ですよ。通りにいる人は誰でも招きなさい、あり得ない。しかしこの王はこのように招くのです。なんとしてでも招きたい、という意志が伝わってくる。どうしてこうまでして招きたいのか、と思うほどです。家来たちは通りに出ていき、見かけた人は善人も悪人も皆集めたので、祝宴は客で一杯になった。

 しかしたとえはここで終わりではない。「王が入って客を見回すと、そこに礼服を来ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか』」と言った。王は礼服を着ているかどうかを問題にしたのです。

 王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と尋ね、この者が黙っていると祝宴の外に放り出したというのです。けれども通りに出ていき誰彼皆集めてきて、「礼服」を着ていない、と言って咎めるのはどうか、思うのではないでしょうか。ずいぶん無茶な話だ、と思うのです。

 この時代、王が婚礼の祝宴の招く場合、礼服を与えてそれを着たのだ、とも言われています。とすれば、この人は与えられた礼服を着ずにあえて自分の服で間に合わせた、ということになります。自分の持ち物で間に合わせた、ということに他ならない。

 このたとえ話は何を語ろうとしているのか、主イエスはこのたとえで何を伝えようとされたのか。最初に申し上げた静止画ではなく動画、という視点で言えば、物語は招きがあり、その招きに対する無視があり、さらなる招きがあり、こんどは招きに応えたが、「礼服」を着衣していない、という具合に物語は展開していきました。

 最初に王の王子の婚礼の祝宴に招かれていた人たちは、神からの招きを受けたイスラエルの人々、さらにその中でも祭司長や長老たち、ファリサイ派の人々と、言えるかもしれません。しかし招かれた人たちは、その招きを無視した。自分の日常の働きを優先した。変な言い方ですが、宗教的指導者は宗教的な日常の歩みを優先して、神からの招きの声を聞き損ねた。これはわたしたちにも刺さってくるのです。神の招きに今応える、ということがいつのまにか、後回しになっていく。日常の営みや仕事はいろいろあるのです。ひょっとして、この招かれた人たちも、時間ができたら、と思っていたかもしれない。しかし、それは招かれた「今」という時を見失っている。自分の業に忙しいのです。そもそも王に招かれたということの意味が分かっていない。その招きがどれほどのものか、自分の業を中断して、王の招きに向き直るということがなければ、招きに応えることはできない。思い起こしてほしいのですが、この間聞き続けてきた「悔い改めて、神に立ち帰る」ということはまさに日常の生活の中で、今日の生活の中で、問われている。招かれた自分、をどこで受けとめているか、ということです。他の者たちが侮辱を加えて殺した、というのですが、招かれているにもかかわらず無視したということは、招いてくださった方を無いがごとくに過ごす、ということであって殺しに繋がるものだったのです。

 王の家来が通りに出ていき、善人も悪人も皆祝宴に招かれ、集められた。その人たちは確かに招きに答えた。招きに応えたけれど、「礼服」を着ていなかったというのです。通りを歩いていた人が礼服を持っているわけがなく、王から与えられるものだと言いました。自分が今着ている服ではなく、与えられる服、ということで思い起こすのは、パウロの言葉です。「あなた方は皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。キリストに与る洗礼を受けたあなた方は皆、キリストを着たのです。」「主イエス・キリストを着なさい」礼服とは、イエス・キリストなのです。わたしたちの力や、わたしたちの信念ではなく、わたしたちの努力ではなく、ただイエス・キリストの信実によってわたしたちは救われる。わたしたちの救いは実現するのです。それはイエス・キリストの十字架による救い。その救いを受けて生きることがイエス・キリストを着ることです。招きは招かれて、この婚礼の席に着いたら終わりなのではない。招きに応えて生きる、それは、イエス・キリストの十字架の信実を受け、信じて感謝して生きる、ということです。この婚礼には善人も悪人も招かれるのです。神の招きは。わたしが善人だから招かれるのではない。わたしが悪人だから招かれないのではない。招かれるのです。そしてそれに応えて生きること、礼服を着ること、それが求められている。そしてそこで神の選びがその人における現実となっていくのです。

 

 このたとえには、凄まじいとしか言いようのない部分があります。招かれた者たちが祝宴を告げ知らせに来た王の家来たちを捕まえて殺すこと。おそらくそれは前回のたとえと同様、イスラエルの歴史における神が遣わした預言者たちを殺したという歴史的過去が投影されているのでしょう。そして王がその者たちを滅ぼすというのは、終末における神の裁きを指し示すものなのでしょう。いずれにしてもこれはたとえなので、その指さすものを思い巡らすと同時に、このたとえ全体のメッセージを思う必要があります。王は招くことをやめない。招いた者たちの招きに応えない現実があっても、招くことをやめない。その姿もこのたとえは物語っている。しかしこの王は、招いて終わりなのではない。招きに応答する一人一人を求める。礼服というのは、ただたんに服装のことではないでしょう。自分が招かれている「今」を受け入れ、その時を精一杯生きる、招いてくださった方と向き合って「今」を生きる、それが「礼服」に隠された深い意味でしょう。

 礼服を着ていないということで外に放り出されたその姿は、わたしたちに何を物語るかと言えば、だから、あなたも神の招きに応えて、キリストを着て、招きの今を生きてほしい、ということでしょう。悔い改めて神に向き直り、キリストの信実の中にある自分を生きてほしい、ということ。招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない、という主イエスの言葉は、嘆きの言葉ではなく、招きの言葉と受け取るべきで、招かれて、その招きに応えて今を生きてほしい、というキリストからの呼びかけです。キリストは受難週の歩みの中で、十字架の直前の道行きの中で、祭司長たちにも、ファリサイ派の人々に対しても、そしてわたしたちに対しても、この招きの言葉をたとえを通して語りかけてくださっているのです。