教会暦・聖書日課による説教
2025.8.3.聖霊降臨節第9主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書22章15-22節『 神のものは神に 』
菅原 力牧師
主イエスがエルサレム入りされてからの一日一日の主イエスの言葉、行動、主を取り囲む人々との論争、発言に聞いています。
その中で主イエスは、三つのたとえ話を連続してお語りになりました。すると今度は、主を取り囲んでいた人々からの問いかけ、攻撃と言っていい質問が起こってきました。
ファリサイ派の人々は、主イエスに対する怒り、憤りが激しくなり、ヘロデ党の人々と、共謀して主イエスを罠にかけようとするのです。
もともとファリサイ派の人々と、ヘロデ党の人々とは、立場の異なる人々でした。にもかかわらず共謀するということは、両者が主イエスを共通の敵と捕らえていた、ということに他なりません。
この両者が手を組んで罠にかけようとしたのは、納税問題でした。というのも、ユダヤの人々にとってこの納税問題というのは、まことに悩ましい、頭から離れることのない厄介な問題だったからです。
そもそもユダヤの地は紀元6年にローマの直轄地になり、直接ローマ帝国に支配されるようになります。そこで課せられたのが人頭税という税金で、所得や奴隷か自由人かなどに関係なく、一人一人の男に一律税金が課せられた。その際、この人頭税はローマの貨幣で払うことが義務付けられていました。そのローマ貨幣にはローマ皇帝の顔が刻まれており、中には「神の子・皇帝ティベリウス」と刻み込まれたものもありました。ローマ皇帝は自分のことを神の子だとしていたのです。こんな貨幣を手にすること自体ユダヤ人にとっては、屈辱的だったでしょう。そして納税するたびにユダヤの民は、納得できない何かを感じ続けていたのです。
ファリサイ派とヘロデ党の人々は、その納税問題を主イエスにぶつけてきたのです。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方だと知っています。人に分け隔てをなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お答えください。皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか。いないでしょうか。」
この質問者たちの態度は主イエスに対してある意味最高の賛辞を語りつつ主イエスに問いかけてくる、というもので、まさに慇懃無礼な態度です。彼らの質問は、主イエスを罠にかけるための質問でした。簡潔に言えば、この質問に対して、皇帝への納税に対して、否定的な発言をすれば、反ローマということで、ローマに訴えることができる。皇帝への納税に対して肯定的な発言をすれば、ユダヤ人たちの信望を失う、どちらの発言をしても、主イエスを貶めることができる、そういう仕掛けの質問なのです。
この質問に対して主イエスはこう応えられました。「偽善者たち、なぜわたしを試そうとするのか。」主イエスはここで質問者たちのことを「偽善者たち」と呼びました。その意味は、二重三重の意味があったのではないか、と思います。一つには、彼らが口先では主イエスのことをほめたたえながら、実際には罠にかけようとしていることを見抜いておられた主が、偽善者だ、といった意味があるでしょう。しかしそれだけではない、納税問題というユダヤ人であれば、誰もが頭を悩ませている切実な問題を、罠として用いる、ということも偽善だということです。納税問題には、たんに税金をローマに納めるかどうか、ということにとどまらない、偶像にすぎない、神の子を自称するローマの皇帝の貨幣をローマに捧げるのは、信仰の問題でもあった。それを人を貶めるための論争の材料としたことも偽善なのです。さらに言えば、この質問をしている当事者、ヘロデ党というのは、ユダヤ人の中にあっても親ローマ派であり、ローマに取り入ろうとしてグループです。だからローマに税金を納めることに対して、肯定的と言える人たちでした。一方のファリサイ派は反ローマ的なグループで、税金を納めることに対しては消極的な、しかし実際問題として納めざるを得ないという人々でした。つまり質問者である者たちにおいてもこの納税問題は、単純ではない、複雑な問題でした。であるにもかかわらず、その問題を「税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか」という具合に二者択一の質問にする、これが偽善なのです。そもそもこの時代のユダヤ人にとって、ローマに税金を納めることが、何の抵抗感もなくなされるはずはないのです。他国に支配されて、税金を取られ、自分たちのためではなく、ローマの収入となっていく、そんな税金がうれしいわけはないのです。それを罠にはめるため、二者択一の質問にして、主イエスに問いかけるそれが偽善だというのです。
主イエスはこう言われます。「税金に納める硬貨を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持ってくると、「これは誰の肖像と銘か」彼らは「皇帝のものです」と応えるのです。すると主イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
この主イエスの発言は古来さまざまに解釈されてきました。さまざまな解釈されてきた背景には、この主イエスの言葉が短くて、言葉の意味を十分汲み尽くせない、文脈を辿れない、ということがあるのです。その結果解釈者の思想、考えがこの短い言葉に盛られていく。例えば有名な解釈に、わたしたちが生きていく世界は、皇帝の領域、つまりこの世の領域があり、また神の領域がある。世俗の領域と、聖なる領域がある。税金はこの世の領域に属するものであり、それはこの世で生きるうえで必要なことであって、皇帝のものは皇帝に、世俗のものは世俗のものとして、この世のものはこの世のこととして、果たしていくべきであり、また神の領域、宗教的な領域の事柄はそれとして果たしていくべきことがある、という理解です。あるいは、皇帝の領域というのを政治の領域、神の領域を信仰の領域と分けて、政治と信仰は別のものなのだ、と理解するのです。二つの領域を切り分けることで、二元論的に切り分けて理解しようとするのです。
しかし、ここでの主イエスの言葉をどう理解するかは、ただたんにここでの発言だけでなく、前後の文脈や、主イエスの歩みを振り返りつつ受けとる必要があります。特にここでは、エルサレム入城後の歩み、言葉との関連の中で考える必要があります。そこで示されていくのは、たしかにここに登場する者は皆、皇帝の、ローマの具体的な支配下にあるのです。その中で生活を余儀なくされているのです。わたしたちも同じように、今、ここで、政治的な環境を含め、今の時代の文化、流れの中でそれに拘束されながら生きているのです。だから当然この世のさまざまなものと向き合って、その中で果たすべきことをしていかなければならない。信仰者は世捨て人になるのでも、この世に背を向けて生きるのでもない。税金の問題も避けて通ることはできない。果たさなければならないものは果たしていく必要がある。けれど、それは悔い改めて、神に立ち帰る、という根本的な、わたしたちの今を生きる中で、神に立ち帰って、神の御言葉に聞き、神に招かれている今を生きる中で、この世のこともそれぞれ担うべきは担い、果たすべきは果たす、ということなのです。神のものは神にという、神のものとはわたしのことです。わたしたち自身が神によって造られた、神の似姿である、神のものなのです。神のものであるわたしが神に、とは神に立ち帰り神と向き合って、神に招かれている今を受けとって生きるということです。そしてそれはこの世と向き合う、この世に関わる生活を生み出していく、それが皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、という主イエスの言葉の真意であろうと思うのです。
先週のたとえ話で、王の王子の婚礼の祝宴に招かれた者たちが、一人は畑に、一人は商売に出かけて、祝宴の招きに来なかったということがありました。それは今日の聖書箇所との関連で言えば、この世のことだけを優先した、ということです。招かれた者たちは、王の招きの中にあったのです。そのことを忘れてか、無視して、今日の生活だけを生きた。しかしあのたとえが語るのは、日々の生活なんかどうでもいいから、招きに応えよということではなく、今、招かれているという現実に応えて、その招き応えて、王と共にこの婚礼を喜び祝い、そしてあなたはあなたの日常へと向かう、という生き方への招きです。それは、この世と天国というような二元的なものではなく、神の招きに応えつつ、与えられた日常へと向かう、二層構造のようなものです。
皇帝のものは皇帝に、という生活は、神のものは神に返す、という歩みの中で全うされていくものだ、とキリストは言われておられるのです。
それは、自分の日常の中で、神に向き直ることから始まる生活です。悔い改めて福音を信じる、それが神のものを神に返す始まりなのです。悔い改めるとは、心を入れ替えるとか、一大決心をするというようなことではありません。そんなことは神は期待しておられない。ただ、神に向き直るのです。それはわたしたちにとって、み言葉に聞き続けることの中で、起こしていただくことで、その中で自分がキリストの信実の中にあることを受け直していく、そして感謝して神と向き合いながら生きる。それが神のものを神に返す歩みであり、そこから、この世のものをこの世のものとして受けとめ、生きる力も勇気も元気も与えられていくのです。キリストは、たとえ話において、ファリサイ派からの問いかけに対しても、一貫してこのことを語られた。十字架の直前、十字架を目の前にして、わたしたちはこのことを聞かずして何を聞くのか。キリストの言葉に、今日聞いて、神に向き直って一人一人歩んでいきたいと思います。