教会暦・聖書日課による説教
2025.9.14.聖霊降臨節第15主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書23章1-12節『 神を仰ぐ 』
菅原 力牧師
「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。」主イエスはエルサレムに入城されてからというもの、実に多くの言動をなさり語られました。その中には、攻撃者として主イエスに質問してくるユダヤ教の指導者たちも多くいたのです。それはある意味当然のことで、主イエスが神殿の境内で教えたり、語ったりしておられたのですから、ユダヤの指導者たちが問い質さざるを得なかったでしょう。今日の場面はそうした中で主イエスが群衆と弟子たちに向かって語られた言葉が記されています。
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に就いている。」話の中身は律法学者やファリサイ派に関することでした。この人たちは「モーセの座」に就いている、その「座」と言われているのは、シナゴーグと呼ばれたユダヤの礼拝堂の正面に置かれた台座、椅子で、そこに律法学者、ファリサイ派の人が座り、律法を解き明かすのです。まさにそれはユダヤ教における権威の座と呼べるものでした。
この「座」はギリシャ語でカテドラという言葉で、カトリック教会はこの言葉を継承して、カテドラを司教座という言葉で今日も使い、この司教座のある教会をカテドラルと呼んでいます。
主イエスはこの座に就く律法学者やファリサイ派の人々が取り次ぐ言葉、それは行い、守りなさい、と言われる。
「しかし、彼らの行いは、見習ってはならない、言うだけで実行しないからである」、と言われるのです。
確かに律法学者たちはこの座から律法の言葉を語り解き明かしてくれる。だが有言不実行だ、と言われる。
人には背負いきれないほどの重荷を載せ、自分ではそれを動かすための指一本貸そうともしない。何を言っているかと言えば、重荷というのは、律法の細かな条文や細則をこれを守れと言って背負わせる、ということ。そしてその人がその重荷に苦しんでいても指一本貸そうとない、ということです。
では彼らは何もしないか、というと、することがある。その例として挙げているのが、聖書の言葉が入った小箱の紐や、衣の房のことを主イエスは語るのです。これは律法の言葉を日常の中でも忘れないようにする当時の身に着けるグッズだったのですが、律法学者たちはファリサイ派の人々は一般の人たちよりもそれを大きくしたり、目立つようにして、自分たちが律法に忠実に生きていることをアピールしている。「そのすることは、すべて人に見せるためである」と主は言われるのです。
律法学者やファリサイ派の人々、この人たちは語ることと、していることがかけ離れている。しかも、やることと言えば、人にこれ見よがしに見せるための行動だ、と主は言われたのです。
誤解のないように言えば、もちろん律法学者の中には、謙遜な人もおり、律法の教えと自分行動との乖離に悩み苦しむ人もいたでしょうし、ファリサイ派の中には、優れて律法に聞き、その律法に生きようとした人たちも少なからずいたでしょう。主イエスがそういう人たちのことを知らなかったわけではないでしょう。しかし、一方でユダヤ教の指導者層の中にその行いは見習ってはならない、という人たちがいたのです。そして主イエスはその人たちのことを取り上げることで、群衆や、そして弟子たちにここで大事な何かを伝えたかったのです。
この人たちは、「宴会では上座(じょうざ)、会堂では上席に座ることを好み、また広場で挨拶されたり『先生』と呼ばれたりすることを好む。」という彼らの姿を浮き彫りにするのです。
こうした律法学者やファリサイ派の姿を指摘したうえで、主は弟子たちに「だが、あなた方は『先生』と呼ばれてはならない。あなた方の師は一人だけで、あとはみなきょうだいなのだ。また、地上のものを『父』と呼んではならない。あなた方の父は天の父お一人だけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなた方の教師はキリスト一人だけである。」というのです。
このキリストの言葉は誤解しやすい文章ですが、そもそも何を言わんする言葉なのか、よく理解する必要があります。先生と言えば、牧師もそう呼ばれていますし、教会の信徒の中には、先生と呼ばれる人も多くいるでしょう。そもそも父と呼ぶな、というようなことはおかしなことですよ。
これは言うまでもなく、「モーセの座」という話の文脈の中で言われていることです。この座がユダヤにおいて権威の座になっていた。しかし当たり前のことですが、その座の権威は神の権威であって、そこに座る律法学者や、ファリサイ派の人々の権威ではない。あくまでも神の権威なのです。
しかしユダヤ社会の中で、この座は律法の解き明かしをする宗教的指導者の権威として受けとめられていったのでしょう。それは、ある意味律法学者たちだけの責任ではないのかもしれません。聞く側のユダヤの人々も指導者たちを担ぎ上げた。神輿の上に担ぎ上げた、そして「先生」と呼び、「父」と呼び、「教師」と呼んだのです。キリストがここでいわれているのは、その座から語られる言葉の権威は神であり、語る者にあるのではない、そのことに目を向けよ、ということです。ですからここで、たんに日常生活の中で、先生とか父とか教師と呼ぶことを否定している、ということではない。
その上でわたしたちはここで、キリストが語ろうとしていることを考えてみたいと思うのです。キリストがここでいわれていること、それは先週ご一緒に聞いた聖書箇所の言葉と深く関係しあっています。それは主イエスがファリサイ派の人々に尋ねた言葉「あなた方はメシアのことをどう思うか」「あなたがたはキリストのことをどう思うか」という問いですよ。
「あなたはキリストをどう思うのか」それはもう少し噛み砕いて言えば、あなたは自分自身の生活の中で、日常の中で、イエス・キリストをどう受けとめ、どのような方としてその言動に聞いているのか、ということでしょう。
おそらく、キリストがこれを語られたとき、弟子たちを含め、「キリスト」の意味がよくわかっていなかったと思います。十字架、復活を経験していないのですから。キリストはこの言葉を記憶して、ご自分が十字架にかかり、甦って父のもとに帰っていかれた後、キリスト=救い主ということを受けとめていってほしいという願いが込められた言葉であったのです。
律法学者やファリサイ派の中で、権威の座に座り、律法を語り、日常において名士のようになり、その肩書で、その社会的地位でその上に乗っかって歩んでいるという人がいた。そして一方では、普通の人々も、シナゴーグで律法の教えを聞き、型通り守って、その守っているという満足感で、日々すごしていく、立派かどうかわからないけれどそこそこの信仰者だと思って日々すごしていく、それも多かったのではないか、と思うのです。
しかしイエス・キリストとの出会いは、わたしたちを心底揺さぶります。
確かキリストは先生としての役割も果たしてくださっています。教師としての役割も担ってくださっています。しかし、決してそれにとどまるものではない。たんに教師ということだけで済むような関係ではないところへ、わたしたちを招き入れる。
キリストはたんに教える人なのではない。キリストはわたしを負う方なのです。わたしという人間の存在全体を背負う方なのです。わたしの罪を負う方なのです。権威の座に座って指一本動かそうとしない、上からの方ではないのです。自分を無にして、僕の形をとり、謙って死に至るまで、十字架の死に至るまで、わたしのために仕える僕となられた方です。まさにここでいわれている律法学者たちやファリサイ派の人々とは真逆。生の方向性が全く違う。
わたしたちがイエス・キリストと出会う、ということはこのわたしのために僕となり、十字架によってわたしを負ってくださったこの方と出会う、ということです。そして大事なことは、出会って、どう生きるか、ではなく、キリストに出会い続けながら、生きていくということなのです。出会いの中で11節にあるような仕える者になりなさい、という方向性を示されていく、そうだと思います。しかしその先、自分の生活の中でそれがどう形を成し、形成されていくのか、それはキリストに出会い続けながら具体的な現実の中で考え、決断し、生きていくことになるのです。
キリストに出会い続けるためには、キリストの言葉に正確に聞いていかなければなりません。自分の思い込みでキリストの言葉を聞く人は、自分に出会っているだけ、ということにもなりかねません。キリストのお語りになることを、キリストのみ心に即して聞き、キリストに出会いながら、歩む。
キリストのみ言葉に聞き、キリストのみ心に触れていく、キリストに出会い続けていく、そこでこそわたしたちは神と出会い、神の御心に出会っていくのです。そしてその出会いの中で、わたしたち一人一人の信仰者の生が形成されていくのです。