教会暦・聖書日課による説教
2025.9.21.聖霊降臨節第16主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書23章13-24節『 神を見るまなざし 』
菅原 力牧師
先週の聖書箇所で主イエスは律法学者、ファリサイ派の人々に対する批判を語られました。今日の聖書箇所はその批判をさらに踏み込んで、主が語っていかれる箇所です。13節から来週読む箇所を含め主イエスは7回同じ言葉を繰り返されます。それは「あなたがた偽善者に災いあれ」という言葉です。原文ではもっとわかりやすく「災いあれ」が文頭、文章のはじめに来ています。「災いなるかな」汝ら偽善者なる者よ、という文章です。
「災いあれ」の7回にまで及ぶ繰り返し、ということで思い起こすのは、「幸いなるかな」と繰り返されるこのマタイ福音書にある山上の説教での主の言葉でありましょう。すなわち主イエスの伝道の御生涯において、最初と最後にこういう言葉が、対照的に出てくる、ということに心を留めたいと思うのです。
今日の聖書箇所13節から24節では4回、『災いあれ』が語られている。まずその四つのことを、ざっと見ておきます。
一つ目は「あなた方は、人々の前で天の国を閉ざしている。自分が入らないばかりか、入ろうとする人も入らせない。」
天の国とは、神の支配する終末の国のイメージですが、その神の支配への通路を、律法遵守のハードルを自分たちで勝手に上げて、人々を入らせない。そして自分たちはもうすでに神の支配の中にあると思い込んでいるけれど、律法学者たちも入れない。
二つ目は律法学者たちがユダヤ教の伝道に赴くのだけれど、ユダヤ教の改宗者が出ると、山のような律法やその細目をその人たちに背負わせて、律法を守れないのだから、ゲヘナ(地獄)行きの子にしてしまう。
三つ目。これは律法遵守の際のとても細かい話です。「神殿にかけて誓う、という場合、神殿のどこに向かって誓うことが大事なのか」という部外者が聞いたら、あきれるような議論なのですが、それを律法学者やファリサイ派はやっていたのです。同じように、祭壇にかけて誓っても、大して拘束力はないが、祭壇の上の供え物にかけて誓ったら、それは必ず果たさなければならない、というような解釈をまき散らしていた。
そして四つ目は律法において定められている十分の一献金。これはお金だけでなく、農作業の収穫物も十分の一納めなければならない、と律法学者たちは解釈し、ミント、ディル、クミンといった料理の薬味に使われる植物や医療用の薬草といった少量の収穫物にも十分の一を適用したのです。しかし主はこうした細かい点にまで律法を遵守させようとする律法学者たちが、律法における公正、慈悲、誠実、ということをないがしろにしている。細かい点はいくらでも指摘するが、律法を守るうえでの大事なこと、それが抜けている。そのことを主は「あなた方は、ぶよは漉して除くが、ラクダは呑み込んでいる」という極端な比喩で現しているのです。
主イエスはこうしたことを具体的に取り上げたうえで、律法学者やファリサイ派にあなた方は偽善者だ、と言われる。偽善とはうわべは高潔な宗教者を演じつつ、中身は神の方を向かないで人間ばかり見ている、いうことです。そして最初に申し上げた災いなるかな、あなた方は災いだ、と繰り返されるのです。ここでいわれる「災いあれ」は、災いがあるように、という意味よりも、災いだ、ひどい、というような意味で、主イエスの激しい憤り、悲しみ、の表現として語られているのです。
主イエスがこれほどまでの激しい、強い批判の言葉を語られたのは、なぜなのでしょうか。
旧約の民に律法が与えられて、人々は神とイスラエルの契約に基づく律法としてそれを大事に守ってきました。その中で律法学者と呼ばれる人々が出てきたことも当然頷けることです。人々にとって神への信仰、神に従って歩むことは律法を遵守することでありました。
律法を守り律法に生きる、その場合、大事なことは律法において神の御心に顔を向けて、神の御意志に触れていくことです。わかりやすく言えば、律法によって神と出会っていくこと、それが大事なことなのです。このことが根本にあってこその律法なのです。
しかし、律法という掟を守ることにアクセントが移り、やがてそこで神と出会うというよりも、律法を如何に落ち度なく、遺漏なく守ることができるかどうかということに心が向いていく面があったのです。
なぜなら、以前にも申し上げたように、律法と一口に言っても248の命令と365の禁止条例から成る大分なものであり、その細部に至る解釈については到底一般の人の手に余るものでした。従って律法を守るにあたって、専門家である律法学者に委ね、律法の最も忠実な守り手であるファリサイ派の人々の言うことに従って、信仰生活を送っていたのです。そうした中で、繰り返しますが、人々は膨大な律法を守ることに躍起になり、守ることに精一杯になっていく。それは律法学者たちによる先ほど見たような細部の細かな議論や解釈が拍車をかけていた、と言えるのです。
これはわたしたちに即して考えれば、あくまでも比喩的な表現ですが、わたしたちキリスト者は、聖書を読むことで、み言葉に聞くことを大切にしてきている。特にわたしたちプロテスタント教会、福音主義教会は聖書を読むことを大切にしてきた。そしてそれは、わたしたちにとって目的のある行為なのです。それは平たく言えば、神に出会うためです。神に出会っていただくと言ってもいい。聖書を読む、み言葉に聞く、何らかの自分なりの理解を得る、それで終わりなのではない。聞くことで、神と出会い、そしてその神のみ心に触れて、わたしが生きる、そういう目的というか、祈りを持っている行為なのです。
もしそこがあやふやになってくると、聖書を読むということは他の本を読むのと変わらないものになってしまう。十分の一を献げる、お金も、収穫物もとにかく十分の一献げる、そのことに心を向けて、肝心の神に自分を献げるということがどこかに行ってしまう。つまり人間の行為に目を奪われて、神に心が向いていない、ということがたやすく起こるのです。
聖書を読んで、むずかしい箇所やわかりにくい箇所であればあるほど、自分なりの理解やわかった、ということで納得して、そこで終わり、ということはないでしょうか。聖書に聞くことの目的はわかっているとしても、実際、自分の了解で終わっていることは少なくないのではないでしょうか。
聖書のこの言葉を通して示される神の御心にわたしたちが出会っていく、そのために聖書を読むのです。従って聖書を読む、ということはいろいろそのための自分なりの勉強をしたとしても、その勉強で満足するようなことではなく、神さまあなたのみ心に出会わせてください、という祈りが伴うものです。神の側から言えば、聖霊の働きの中でわたしたちは御言葉に聞き、神に出会わせていただくのです。
主イエスは律法学者たちのことを16節で「ものの見えない案内人」と呼びました。それは、律法という神からの言葉を取り扱いながら、肝心のことを見ようとしていない、見ていない、律法学者たちのことをこう読んでいるのです。
神殿で誓う時に、どの部分でかけて誓うのが大事なことなのか。それはこの部分ではなく、この部分だ、ということを律法学者たちは言ったのですが、そもそもどこであれ、神殿であれ、自分の家であれ、どんな場所であれ、神を仰いで、神に向かって呼びかけ、誓っていくことこそ、大事なことなのです。律法学者たちは、どこを仰ぎながら律法を語っているのか。
これはわたしたちに縁遠い話なのではない。
わたしたちも聖書を読む。その時わたしはどこを仰いでるのか。神がこのみ言葉を通してわたしたちに語りかけてくださることを信じて、わたしたちは聞こうとしているか。
繰り返しますが、聖書を読むことは、神と出会うためであり、神の語りかけに耳を傾けていくことです。そうであるならば、自分にとってわかるわからないは二の次三の次でしょう。たとえわからなくても、この言葉で神が語ろうとしてくださっていることがある、わからないけれど、大事なことを言おうとされている、ということを受けとめていくなら、その言葉を心に留め、聞かせてくださいとの祈りを持ちつつ、歩んでいく、ということになるのです。聖書を読んでわかる、ということは大切なことですが、それ以上に大事なこともあります。それは語りかけてくださる主を信じて、み言葉に聞き続けることです。祈りつつ、聖霊の働きを願い、聖書に聞き続けるのです。
そのことをわたしたちが忘れてしまうなら、律法学者たちの轍を踏むことになるのです。
私たちは主イエスがエルサレムに入城されてから、語り続けておられる言葉に聞き続けています。そしてその言葉の繋がりの中で貫通する主の御声は、悔い改めて、神に立ち帰り、神に向き直り、神の御意志に聞き、福音に聞いていきなさい、と呼びかけられた。それを一人一人が生きるのです。神を仰ぎながら、語りかけてくださる主を信じて、み言葉を受けとり、聞いただけでなく生きるものとされていく、キリストはそのことを望んでおられるのです。