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教会暦・聖書日課による説教

2025.9.28.聖霊降臨節第17主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書23章25-39節『 神の言葉に聞く者 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所はお読みになってわかるように、先週の箇所の続きといえる箇所です。先週の箇所をさらに踏み込んで語っていく聖書箇所です。

 しかし、正直、わかりやすい箇所ではない。一つには先週に引き続き、「偽善」「偽善者」ということが問題になっているのですが、なぜここまで主イエスによって「偽善」が批判、攻撃されるのか、よくわからない、ということがあるのだと思います。それは別の角度から言えば、主イエスが、十字架の直前に、これほどまでに語ろうとしておられることは、何なのか、ということです。

 今日の聖書箇所も前回同様「あなたがた偽善者に災いあれ」という言葉が3回繰り返されています。ここでは外側と内側ということが重ねて語られています。「杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている」。外側、つまり人に見える部分は清めているが、内側、つまり見えない部分は強欲と放縦に満ちている、ということです。先週わたしたちが聞いたのは、外側は立派な宗教者を演じているが、内側は神の方を見るのではなく、人間ばかり見ている、ということでした。外と内の乖離、外と内の落差ということです。

 ただ外と内の乖離ということは、別に律法学者やファリサイ派の人々だけのことでなく、誰にでもあることで、外側で演じている自分と内側の自分とが全く同じ、というようなことは普通に考えにくいことです。

 だから偽善ということであれば、人は大なり小なり身に覚えがあるのです。しかし主イエスはここで一般的な意味で「偽善」をただ問題にしている訳ではないでしょう。つまり主はここで、道徳とか、倫理の問題として偽善を取り上げているわけではない。「口ではあんなこと言っているけど、おなかの中では全然違うこと考えている」「あの人は偽善的だ」という場合、一般的には、潔癖な人から見て、外と内の落差が激しいということなのでしょう。

 

しかし主イエスはここでそういうことを問題にしている訳ではない。

 なぜなら主はここで、偽善のことを問題にしながらその偽善が預言者を殺すとか、神が、キリストが遣わすものを殺し、迫害していく、と語っていかれるからです。つまりこの偽善の問題は、神を何らか殺そうとすることに繋がっていくというのです。

 殺すというような過激な言葉が出てきて、驚く人もいると思います。ここでマタイによる福音書21章で主が語られた葡萄園のたとえばなしを思い起こしたいと思うのです。主人が造ったぶどう園を農夫たちに貸して、農作業を委ねていくたとえ話です。収穫の時が近づいたので、主人は収穫を受けとるために僕たちをぶどう園に送ったのです。

 すると農夫たちは何を思ったか、この主人の僕たちを袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺したのです。主人はさらに多くの僕を送ったのですが、農夫たちは同じようにしたのです。そこで主人は最後に自分の息子なら敬ってくれるだろうと思い、自分の息子をぶどう園に送った。すると農夫たちは、その息子を葡萄園の外に放り出して殺してしまった、という話です。

 残忍な話ですが、ここで「殺す」、ということが繰り返し出てきます。主人が葡萄園を託した農夫たちが主人が遣わした人を次々殺していく、それは奇しくも今日の聖書箇所と重なり合っているのです。

 偽善ということがなぜ殺すというようなことと結びつくのでしょうか。

 主イエスは、先ほども引用したように、偽善者は杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦に満ちている、と言われました。強欲と訳された言葉、口語訳聖書では貪欲と訳されていました。貪欲とは、飽くことを知らない欲ということですが、もっと欲しい、もっと欲しいということで「足るを知らない欲望」のことです。先のたとえ話では主人から託された葡萄園であるにもかかわらず、主人の僕たちが送られてくると、その僕を殺す、最後には主人の息子まで殺してしまう。明らかにイエス・キリストの十字架が予知され、示されています。

 なぜ葡萄園の農夫たちは主人の僕を殺したのか。それは葡萄園を自分たちの思うようにしたかったからです。主人のものではなく、自分たちのものにして、自分たちの好きなようにしたかった。それは神から与えられた場所も、神から与えられた時間も、自分の思うようにしたい、自分のものにしてしまいたい、人間の姿。貪欲という言葉が指し示すものです。

 そんな大それたことは考えていない、と思う人は多いでしょう。

 しかし人間の中には、神から与えられた言葉であっても、自分の裁量でこれは聞かなくてもいい、これはとても無理、これは今じゃなくていい、というどんどん結果的に遠ざけていくということは普通にあるのではないでしょうか。つまり神の言葉であってもわがままにしていたいということです。主人の農園で働いているのに、そこでの収穫物は自分のものにしたい、それは人間の強欲なのでしょう。神の言葉を伝えるべく遣わされた預言者であっても、人間の思いにそぐわないなら、殺すことも辞さない。殺すというのは何も殺人のことだけでない、神から与えられている言葉を自分の思いのままに、退けたり、遠ざけたり、無視したり、ないものとする、それが殺す、ということです。遣わされた預言者の語る言葉に対して、その言葉を殺すのです。しかもその言葉を殺すのは、宗教的な指導者であったり、外側は清くしている人たちだ、というのです。

今日の聖書箇所では殺すという言葉が何度か出てきますが、それは事実お語りになっているキリストご自身が殺される、ということが主の言葉の背後にある、ということは確かなことです。神のみ心をあらわす神の言葉そのものであるイエス・キリストを人々は退け、遠ざけるだけでなく、殺すのです。人間は外側で神を求め、神に祈る人であっても、内側では神の言葉を遠ざけ、神の言葉を殺すということがあるのだ、ということが語られている。

それは虚心に振り返ると、わたしの問題であることがわかってきます。つまりわたしたちは一方で神の恵みを受け、神の招きを受け、神の御言葉に聞いて生きていきたいという思いを持ちつつ、一方で、神の御言葉を退ける、場合によっては神の言葉を殺す。そういう二面性というか、矛盾を抱えている。

しかしキリストはただ糾弾し、ただ攻撃されたのではない。「めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。」キリストはその御翼の影にわたしたちを何度も何度も呼び集めようとした、とおっしゃるのです。「だが、お前たちは応じようとはしなかった。」そういう苦渋の歩みがある、と言われるのです。

わたしたちは、キリストが指摘なさるような偽善を内に抱え込んでいます。キリストに出会ったのだから、これから偽善のない生活をします、と言ってもそんなことは絵に描いた餅になってしまう。大事なことは自分の中にキリストが言われるような偽善があることを認めていくことです。神を求める自分と、神を遠ざけようとする自分が共存している、ということを自覚する必要があります。

そしてそれは自分の努力で解決できるような事柄ではないことも知るべきでしょう。偽善があることを認めて、その中で、キリストの招きに応えていくことが必要なのです。それは偽善を克服する道のりではありません。偽善のない自分を、立派な自分を目指していく、というのとも違います。

律法学者ファリサイ派の人々とどこかで繋がる自分の内にある偽善を自覚して、なおその自分に呼びかけられているキリストの言葉に聞いていくのです。

 キリストはご自分が十字架にかかる直前にこの偽善の話をされた。そして人間の偽善は神の言葉を殺すものとなることを明らかにされた。そしてさらにキリストご自身が殺されていくことも示唆された。

 しかしそれで終わりの話ではない。確かに人間は避けがたく偽善を抱え込んでいる。しかしその人間の罪を負う者としてキリストの十字架があることをキリストはやがて知ってほしいという願いがあったでしょう。確かにここで語られているのは人間の罪です。神の言葉を殺そうとする人間の罪です。

 しかし、キリストはその罪を負うためにこの世界に来て下さって、事実負っていかれるのです。今日の聖書箇所の最後の言葉、「言っておくが、お前たちは「主の名によって来られる方に祝福があるように」というまで、今から後、決して私を見ることはない。」これは、わたしたち一人一人が、罪の中にあっても主の十字架を受けとめ、罪担われ、赦されている自分を受けとめる時が来ることをキリストは信じて、主の名によって来たる方に祝福あれ、とキリストを賛美するときが来る、その時にはキリストと顔と顔とを合わせるようになる、という主イエスの言葉です。

 この間、私たちはキリストのエルサレム入城後の言葉の底に流れている強いメッセージ、「悔い改めて、神に立ち帰り、神に向き直り、神のみ心に聞き、福音に聞き、その福音の中で生きなさい」を繰り返し聞いてきました。このメッセージは単なる勧めとして語られたのではないのです。キリストの生と死をすべて注いで語られた、キリストからの呼びかけなのです。それはたとえわたしたちがどんな罪の中にあっても、神の言葉を殺すような存在であっても、なおこの言葉に向き直ってほしいというキリストからのメッセージなのです。