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教会暦・聖書日課による説教

2025.10.5.世界聖餐日・聖霊降臨節第18主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書24章1-14節『 終わりの約束 』

菅原 力牧師

 主イエスがエルサレムに入城され、神殿に行かれ、神殿の境内でなさったこと、語られたこと、その言動に聞いてきました。そして今日の聖書箇所では神殿を出ていかれたことがはじめに記されています。

 その際弟子たちが主イエスの許に来て、神殿の建物を指差した、とあります。指差して何を言いたかったのか、マタイには何も書かれていませんがマルコを見ると弟子たちはこう言っています。「先生、ご覧ください。なんと見事な石、なんと立派な建物でしょう。」つまり神殿の建築物の威容にあらためて驚いているのです。弟子たちが見ているエルサレムの神殿は弟子たちの言うとおりまことに見事な建築物で神殿本体の周囲に南北約450メートル、東西約300メートルの回廊がある広壮な建築物だったのです。神殿本体が立派であることは言うまでもなく全体としてまことに見事なものだったようです。

 弟子たちは神殿を出る際に、あらためてこの建物を振り返るようにして、そう言ったのでしょう。

 すると主イエスはその弟子たちに向かってこう言われたのです。「このすべてのものに見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」主イエスによる神殿崩壊の予告です。驚きの発言です。弟子たちは主イエスの唐突な発言に驚くほかなかったと思います。自分たちが今目の前で見ているこの広壮な建物が崩壊するというのですから。

 3節からは主イエスがエルサレムの町の東にあるオリーブ山に座っておられる場面に移ります。そこはエルサレムの町が見下ろせる場所なのですが、主イエスの許に弟子たちがやってくるのです。彼らは主イエスに尋ねるのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

 弟子たちはこの時、二つの質問をしました。

 一つは、主イエスがさっき言われた「神殿崩壊の予告」それはいつ起こるのですか、という質問です。

 もう一つは、「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」という質問です。

 はじめに申し上げれば、この二つの質問、弟子たちは神殿が崩壊するとき、それが世の終わり、イエス・キリストが再び来られるとき、終末なのではないか、と混同した考えがあったかもしれません。

 弟子たちは広壮な神殿に見とれていました。だからこそこの神殿が崩壊するのは、終わりの時なのではないか、と思っていた。そして彼らは終わりの時には、どんな形でか主イエスが来臨すると、思っていたのです。

 

 主イエスはこの二つの質問に応答する形で語られます。

 結論から言えば、主イエスはこの二つの質問の内容を分けています。神殿崩壊は、あくまでもこの世界の歴史の中の一齣であって、これから起こるであろういろいろなことの一つとして受けとめておられる。そして4節からの主イエスの言葉はよく読めばわかるように、終末はいつ起こるのか、どんな前兆があるのか、については何も語っておられないのです。

 主がここで語っておられるのは、いろいろなことがあるだろう、偽キリストが現れたり、戦争の噂や、民族間の争いや、国家同士の争い、飢饉や地震、さまざまなことがこの地上では起こるだろう。だが、それらが前兆というわけではない。むしろ産みの苦しみの始まりだというのです。

 主イエスがここで語られていることは、「人に惑わされないように気をつけなさい。」「慌てないようにしなさい。」「最後まで耐え忍ぶものは救われる。」ということです。主イエスは終末の時はいつ来るかということには、答えていない。主がここでいわれているのは、次々に起こる困難や課題の中で、惑わされないよう、慌てないように生きるということです。惑わされないようにとは、さまざまな惑わしがある中で、真実なものをしっかり受けとめていく、ということでしょう。神が与え給う福音に聞いて生きる、ということでしょう。この世のさまざまな出来事、この世のあらしの中で、神の信実に聞き、生かされて、生きよということです。

 主イエスが地上での歩んでおられたとき、ユダヤ教の中でも終末を待望する声は大きかった。その背景を説明するにはたくさんの時間を必要としますが、一つの事を言えば、ユダヤの歴史の中で、捕囚後、帰還後政治的にも不安定だった国家を立て直すことが困難な中、終末の神の審判によってこそまことの救いの王国が与えられると信じて、自分たちのさまざまな願望を投影する形で終末論が根を張っていったのです。

 つまり終末と言いながら、それは神による神の与え給う終末というよりも、人々が思い描く理想の国を夢見る人々の考える終わりの時があったのです。

 主イエスのここでの言葉は、そうした背景を考えると、終末ということで人々を煽ったり、いたずらに恐怖感を募らせるようなものではなく、むしろ注意して読めばわかるように、人々があれこれ言う中で、惑わされず、慌てず、いわば粛々と大事なことを見つめ、今を生きることの大切さを語るものであります。ある意味今わたしたちが読めば、当たり前のことを当たり前に言っている、とも思える主の言葉です。終わりの日がいつ来るとか、その前兆とは何か、ということに心奪われて、今を生きることが疎かになったり、浮足立ったりするのではなく、今をしっかり生きる、それが大事だ、というのですから。

 しかしここに、わたしたち自身が本当に心深く受けとめなければならないことがあります。それは、神が定め給う終末の時があることをしっかりと仰ぎ見て、今を生きる、ということです。今を生きることしか目に入らない、地上の生活がすべて、ということではない。終わりの時を信じて、しっかりと受けとめて、今を生きるということです。

 その際主イエスが言われるのは、「人々があなた方を苦しみに合わせ、殺すだろう。」というのです。ここで殺すというのは、前回の聖書箇所に出てきたように、殺人というより、神の言葉を殺すこと、つまりあなた方が宣べ伝える神の言葉を無視する、遠ざけ、退けるということでしょう。「またわたしの名のために、あなた方はすべての民に憎まれる。」

 「また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。」人々の心をとらえ、人間にとってこれが救いだ、と語る偽の預言者が現れるというのです。わたしたちの胸にも響く言葉です。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」ここでいわれる不法とは律法から逸れ、律法から離れていくこと、それによって愛が冷える、というのです。例えば神を全力で愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい、という掟が無視され、一人一人が自己本位になっていく、それによって愛するという根本が冷えていく、そういうことが人間の社会で進んでいったり、蔓延していく。

 だがわたしたちは、どんな時代が来ようとも、どんなに人間の社会が真理から離れていく惑わしの中にあろうと、その中で終わりの時を仰ぎ見て、神の最終的な救いを信じて、悔い改めて、神に立ち帰り、福音の言葉に聞いて、福音によって生かされていく、わたしたちが今を大切に生きる、自分たちの使命を果たしていく、キリストはそのことをここ語っておられる。

 キリストは終末を仰いで、今を生きる、という点で、14節「御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る。」と語られる。わたしたちはこのキリストの言葉を深く味わう必要があるのです。

終末にまで至る時の中で、わたしたちキリスト者に託されている使命は御国の福音を証しし、全世界に宣べ伝えることだ、と言っておられるのです。わたしたち一人一人は、この主イエス・キリストの言葉を各自咀嚼して、自分の人生においてこの課題をそれぞれ負っていきたいと思うのです。

 マタイによる福音書を通読するとわかるように、主イエスはこの福音書の最後に復活の主として弟子たちに現れ、この宣教命令を伝えます。「あなた方は行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」主は十字架の直前において、そして復活後において、福音の証し、宣べ伝えを命じられておられるのです。そしてキリストは世の終わりまで、インマヌエル・キリストである約束してくださっているのです。

 

 終わりの日の約束を信じて仰ぎ見て、どんな時代の中にあっても、惑わされず、慌てず、耐え忍び、福音を信じて生きる、キリストが共にいてくださることを信じて生きる、その歩みの全体が福音の証しとなるのです。キリストが弟子たちに語られた今日のみ言葉、何度でも何度でもかみしめて、生きていきたいと願うのです。