教会暦・聖書日課による説教
2025.10.26.聖霊降臨節第21主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書25章1-13節『 花婿が来るとき 』
菅原 力牧師
十字架に架かる直前の主イエスの言葉が続いていきます。今日の聖書箇所を含めマタイによる福音書の25章では三つのたとえ話が主イエスによって語られます。十字架の直前において、弟子たちのために、そしてわたしたちのために、たとえ話をされる主イエスと、わたしたちはあらためて真摯に向き合いたいと思うのです。十字架に架かる直前まで、弟子たちに、わたしたちに大事なことを伝えるために、たとえ話を創作して、このたとえ話を記憶して、何度も思い返して、受けとめてほしい、という主の熱い、深い思いが伝わってくるのです。
「そこで、天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯(ともしび)を持って、花婿を迎えに出ていくのに似ている。」1節の言葉はこのたとえのいわば表題のようなものです。これから話すたとえ話の要旨ともいえます。
この十人のおとめのうち、五人だけが自分たちの灯のために補充の油を携えていました。遅れていた花婿がやってきたとき、十人は皆起きて、灯に点火したとき、備えのなかった五人の灯は今にも消えそうになっているに気づいた。それで彼女たちは用意のある他の五人に「油を分けてください」というのですが、五人は「分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい」と言うのでした。備えのなかった五人が買いに行っている間に花婿が到着し、備えのある五人は花婿と一緒に祝宴の間に入ったが、他の五人は戸が閉められ、入れてもらえなかった。備えのなかった五人は「開けてください」と願うのですが、その願いは聞き入れられなかったというのです。
このたとえ話の背後には、当時のユダヤ人の結婚、婚宴の習慣があります。当時の婚礼においては、夕方に始まる婚礼が通例でした。婚礼に先立ち、花婿はまず花嫁の家に向かうのです。その時は灯を手にした花婿の友人たちが彼に付き添うのです。一行が花嫁の家に着いたのち、花嫁を加え、さらに盛大になった行列は皆で、花婿の家に向かうのです。その際花嫁の友人や知人が灯を持ち付き添うのです。婚礼の宴席は花婿の家で行うのが普通だからです。この行列は迎えに行くときも、花婿の家に行くときも時間がかかったようです。
こうした婚礼事情を背景にしてたとえ話は語られています。花婿は再臨のイエス・キリスト、そして十人のおとめはイエス・キリストを信じ、その再臨を待ち望む者たちです。たとえの細部でわからないことはあるにせよ、大筋はわたしたちにもよくわかります。主イエスはこの間、ずっと再臨の時の話をしておられるのですから。ここで再臨の主イエスを待ち望む、ということがテーマになっています。すでに先週読んだ24章のところで、「目を覚ましていなさい」ということが繰り返し語られ、忠実で賢い僕と、悪い僕のことが語られていました。
同じテーマが譬の話を違っていても、基本的には繰り返されているのです。事実、このたとえ話の最後には、「目を覚ましていなさい」というあのキーワードが繰り返されているのです。
読んでいくうちに気になってくるのが、「灯」という言葉です。新共同訳では平仮名の「ともし火」、口語訳は「あかり」いずれもわかりやすくない。松明(たいまつ)のようなものなのか、ランプのようなものなのか。この文章からはわからない。ただ五人は予備の、備えの油を用意しており、他の五人はしていなかった。
その違いが、婚礼の祝宴に入るか入れないかの違いになっていったというのです。このたとえでは備えのあるおとめも、ないおとめも共に眠ってしまっているのです。だから「目を覚ましていない」ということがただ単純に寝てはいけないとか、四六時中起きていなさいというようなことではない、ということは24章以上によくわかるのです。「目を覚ましている」ということがどういうことなのか、聞き手と読者は考えなければならないのです。
それともう一つ。灯の予備の備えの油、これはいったい何を指すのか。
終わりの時、再臨の時、それはわたしたちにはいつなのかわかりません。これまで見てきたようにそれを予測し推量することが重要なのでもありません。ただ、神がよしとされるときに与えられる救いの完成の時、それが与えられることを信じ仰ぎ見て、「目を覚まして」灯の備えの油を用意して待つ、ということが求められているのです。
備えの油については、一つには「聖霊」だとする解釈があります。聖霊こそがわたしたちの信仰を活かし、救いの完成を待ち望む信仰を与えるものであり、その聖霊の働きを願い続け祈ることが、ここでの備えだ、という解釈です。
そしてもう一つの解釈は山上の説教において主イエスが語られた言葉「あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。人々があなた方の立派な行いを見て、天におられるあなた方の父を崇めるようになるためである。」という言葉を典拠として灯の油、光を掲げるものとしてのキリストの信じて生きるあなたの行為行動だ、というのです。別にこの二つだけではない、たくさんの解釈がこの箇所を巡ってあるのです。しかし大事なことは、そうした解釈を受けとめつつ、自分でも思い巡らしてみることです。このたとえの中の賢いおとめたちは油を備えたという。わたしは何をもっと備えたらいいのだろうか、と。
この主イエスのたとえ話をあらためて思うと、主は再臨を待ち望むことを婚礼の祝宴にたとえておられる。そして、この女性たちは灯を持って花婿と一緒に祝宴に招かれて、その喜びの席に着く者たちだ、ということ受けとめたいと思います。つまり終わりの時、再臨の時を待ち望むことは根本喜びに溢れた出来事なのだということです。わたしたちが今生きているこの地上の世界は、喜びや、うれしいことがある一方で、困難や、苦しみ、どうしてこんなことがあるんだというような理由のわからない、理不尽な出来事もある。弟子たちもそういうことをいろいろ経験してきたでしょう。そしてこの後、弟子たちはキリストの十字架を経験し、復活の主イエスとの出会いを経験していく。わたしたちもそうです。今わたしたちは十字架と復活の恵みを救いを受けている。救いは受けているけれど、なおわたしたちには未解決の問題や、理由がわからない苦しみがあり、死を迎えるということも少なくないでしょう。しかし、神の救いのわざは十字架と復活で終わりではない。救いの完成の時が来るのです。再臨の時が来るのです。神によって、わたしたちの地上での日々の涙がことごとく拭われる日が来るのです。それはどんな形で七日、わたしたちにはわからないけれど、神による完成の時が来る。その日を待ち望み、今を生きる、その日のために備えつつ、生きる。
ヨーロッパの教会において、大きな石造りの教会の入り口のところに、この十人の乙女の像が彫り込まれている教会があります。この十人の乙女のたとえは絵画や彫刻においてしばしば取り上げられているのです。教会の入り口に左右に分かれて賢いおとめと愚かなおとめがたっているのです。つまりキリスト者が教会に来るたびごとに賢いおとめと愚かなおとめが立っていて、問いかけているのです。あなたは終わりの日を待ち望み、備えて歩んでいるか、それともそのことを忘れて生きているのか。
備えということで一人一人考えることが大事だ、というのはこのたとえ自身が語っているようにも思います。灯の油、それは多くの人にとって日常的な話ではない。つまり翻案するというか、自分の生活の中に置き換えて読み取ることが必要、ということなのです。そこにこのたとえ話の眼目の一つがあると思うのです。
一つの事を申し上げたい。
それは、この備えは神の救いの完成を待ち望むことによるものです。そうであるならば、神が今すでにわたしたちに与えてくださっている救いを何度でも何度でも受けとって、その恵みに感謝し、自分として応答するとともに、なおそれにとどまらない神の大きな、壮大な救いのわざを思いつつ生きることが備えに繋がっていくだろうと思うのです。ですからそれは、聖書の語る神の言葉、キリストの言葉、わざに聞き続けていくこと、受け取り続けていくことに真剣であることと繋がっていく。
これから起こる地上でのイエス・キリストの十字架。そして神による主イエスの復活。それを何度でも受けとり、その救いのわざ、恵みのわざの中にある自分を受けとめる。そして、その神の業が終末に至るわざとして続いていることを知らされ、その大いなる恵みを仰ぎ見る。救いの完成の時があることを信じて仰ぎ見る。そして今を、さまざまな課題のある今を、時に困難があり、障壁のある今を生きる。それがキリストの求め給う備えなのでしょう。