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マタイによる福音書連続講解説教

2026.2.8.降誕節第7主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書26章57-68節『 最高法院にて 』

菅原 力牧師

 主イエスは祭司長たちをはじめ、彼らの引き連れた多く群衆に取り囲まれるようにして逮捕されました。そして、大祭司カイアファの邸宅に連行されていきました。おそらく深夜と言っていい時間、大祭司の邸宅に最高法院のメンバー全員がすでに集まっており、主イエスの裁きを行うのです。少し説明が必要ですが、協会共同訳聖書のこの箇所の小見出しは「最高法院で裁判を受ける」とあります。けれども厳密に言えば、ローマ帝国の支配下にあったユダヤでは裁判をして判決を下すこと、特に死刑判決を下すことは基本的にはできないことでした。死刑判決はローマの権限だった。したがって、ここでユダヤの最高法院のメンバーが集まって為しているのは、翌日おこなわれるローマの裁きの下準備、という性格のものでした。けれどもだからといって最高法院での判断が小さなものというわけではない。ローマにとってもそれは大きな影響を持っていたでしょう。

この大祭司の邸宅での裁きは、はじめに結論ありきの裁きだった。59節によれば、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた」というのです。逮捕してすぐさま裁き、深夜だというのに。しかもその裁きはすでに結論は出ていたのです。一刻も早く裁きを出したいという彼らの思いが現れています。ここで登場しているのはペトロです。彼は主イエス逮捕と同時に他の弟子たちと共に逃げてしまった。逃げたけれども、成り行きを見届けようと、遠く離れて主の後を追い、大祭司の邸宅にやってきたのでしょう。

 祭司長たちは、主イエスを死刑にするための偽証を求めました。何人もの人たちが証言をしたのですが、その証言はかみ合わず、証拠となるものを得られなかった。最後に二人の者が来て発言します。おそらくこの二人、ということの意味は一人だけの証言では無効で、二人以上の証言が必要だというユダヤ社会のルールから来ているのでしょう。二人は揃って、「この男は「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と言いました。」

 これはどこから引っ張ってきたのか、よくわからない証言です。いつどこで主イエスがこの発言をされたのか、主イエスが神殿の境内から商人を追い出した事件を拡大解釈していっているのではないか、とも言われますが、いずれにせよよくわからない。

 大祭司はこの二人の証言を聞いて、「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」と主イエスに問い質します。主イエスは何も答えない。沈黙です。おそらく大祭司は、この証言では決定打にはなりえない、ということがわかっていて、自分から主イエスにこう尋ねるのです。

 「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」大祭司の尋問の核心がこの質問にはあります。お前は自分を神の子、メシアだと自称するのか。お前は自分のことを神の子、メシアだと思っているのか。これが大祭司の問い質したいことです。大祭司にとって、ユダヤの宗教者たちにとって、人間にすぎないイエスが神の子を自称するとすれば、これほど大きな神への冒瀆はない、ということになるのですから。

 大祭司は生ける神に誓って我々に答えよ、と言いました。神において宣誓せよというのです。それはユダヤ社会における正当なことだったのでしょう。

 それに対して主イエスはこう言われたのです。「それはあなたの言ったことだ。だが、わたしは言っておく。あなた方は間もなく、人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る。」主イエスは大祭司の言う神に誓って答えよ、という言葉には直接的には応えない。むしろ逆に、「それはあなたの言ったことだ」と返すのです。あなたがわたしを指して自分を神の子、メシアだと自称していると言っているのだ、言われるのです。

 主イエスはこの場面でこう言われる。

 「あなた方は間もなく、人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗っ てくるのを見る。」

 あなた方は間もなく、という言葉は「今から後」という言葉です。今から後のことを主はここで告げる。それはあなた方は、人の子・イエス・キリストが力ある方、全能の主の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見るだろう、というのです。人の子という呼称は、救い主であり、苦難の僕でキリストということが込められた言葉です。つまりキリストはこの後、十字架において苦しみを受け、人々の罪を負って、罪の罰を受け、十字架において死んでいくが、神によって復活させられて、あなた方を新しく生かす。その人の子が、父なる神と共に雲に乗ってやってくる、主はその終わりの時のことを語られたのです。

 「そこで大祭司は衣を引き裂いていった。『神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。』人々は『死刑にすべきだ』と答えた。」「人の子が力ある者の右に座り天の雲に乗ってやってくる」この言葉を聞いて、大祭司は冒瀆罪だと断定したのです。大祭司は最高法院のメンバーにどう思うか尋ねる。すると聞いていた最高法院のメンバーは「死刑にするべきだ」応えるのです。あなた方も今ここでのこの男の発言を聞いただろう、われわれ全員が神を冒瀆するものの発言を聞いた証人だ、という意味が込められています。

 大祭司が欲しかったのは、どんな形であれ、イエスが神の子であることを言い表すことでした。そして大祭司は主の発言の中にそれを聞いた、というのです。主イエスはここでわたしはメシアだ、というような発言は一切しておられない。ただ人の子は、という呼称で語っておられる。大祭司は力ある方の右に座り、という言葉の中に、冒瀆の匂いを嗅ぎつけ、人の子をイエスの事象と受け取り、神への冒涜、と断定したのでしょう。「死刑にすべきだ」という断定が下されると同時に、人々はイエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、あるものは平手で打って、「メシア、お前を殴ったのは誰か、言い当ててみろ」と言ったのです。主イエスの最高法院における裁きの場面、ここから皆さんは何を聞き取ってこられました。ひどいとか、理不尽な裁きだ、ということで次に行ってしまう、ということもあったのではないでしょうか。ここで主イエスは人間の手になる裁きに、ご自分を委ねておられます。こんなひどい状況の中で、神に助けを求めるとか、神に対して、この者たちを罰してください、というのでもなく、ただこの裁きに自分の身を差し出しておられます。

そもそもこれは、人間が神の子を裁くという裁きです。その内容以前に傲慢の極みであり、人間の罪の極みです。人間が神の子に向って、お前は神の子なのか、メシアなのか、ということを問うこと自体、そしてそれを裁くこと自体、傲慢です。なぜならここには神の前で人間こそが判断の基準であり、大祭司という一人の人間が、最高法院という会議のメンバーが神の子であるかどうかを判断する主体であるのだ、というおごりがあるからです。人間にはそもそもこの方が神の子である、ということを自分の理性や能力で判断できないのではないか、という畏れがない。

この場面で見落としてはならない発言がいくつかあります。一つの事を言えば、二人の証人の言ったこと、三日あれば建てることができる、そして、死刑にすべきだと言った後人々が主イエスを侮辱し、唾を吐きかけ、こぶしで殴り「メシア、お前を殴ったのは誰か、言い当ててみろ」と言ったことです。二つに共通しているのは、お前がメシア救い主なら、「できるだろう」、という揶揄した言葉です。救い主ならあれもこれもできるだろう、という人間の中にある思いです。自分で勝手に救い主像を描き、何でもできる人、というイメージを持つのです。ユダも、ペトロも、他の弟子たちも大なり小なり、そのイメージを勝手に持っており、その自分が作ったイメージが壊れるのに自分でつまづいていったのかもしれない。

しかしキリストはこの場面で、この愚かで傲慢な人間の裁きをただ受けておられるのです。この罪人の愚かに愚弄されることをただ受けておられるのです。理不尽で、不当で、愚かなこの裁きを受けていかれる。それがこの罪人の罪を負う、ということになっていくからです。神の子を裁いてやまない人間の罪を背負うためです。その愚かを担うためです。

前回の聖書箇所で主イエスを逮捕しようとして武装した者たちがやってきたとき、剣を抜いて大祭司の僕に打ちかかった者がいた。それに対して主が語った言葉を、わたしたちは忘れるわけにはいかない。武力に対して武力、罪人の悪に対して罪人の悪、それでは聖書の言葉は実現しないのです。神の意志は貫かれない。キリストは無力であることを選び取っておられるのです。

  

主イエス・キリストは、罪人の罪を負うという神の意思に服従しておられるのです。この裁きの場面には、人間の罪が現れています。人間の神に対する傲慢。そして同時に、人間が自分勝手に描く救い主のイメージが人々の心の中にあることが顕わになってきています。それはまちがいなくわたしたち一人一人の中にもあるものです。

キリストはその人間の罪を負っていかれる。同時に、キリストはここで、終わりの日の約束も語られる。それは、今ここでキリストを裁く者たちも、皆神の御手のうちにあることを語っている、と受けとめることができましょう。神の、キリストの愛と恵みと、終わりの裁きのうちにある、ということです。そのことを受けとめて、主イエスは人間の裁きを受け、十字架に架かっていかれる。それはキリストご自身がこの終わりの約束の中に生きておられるということに他ならないのです。