マタイによる福音書連続講解説教
2026.3.8.受難節第3主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書27章27-31節 『 侮辱を受けるキリスト 』
菅原 力牧師
今朝わたしたちに与えられた聖書箇所は主イエスが十字架へと引き渡されていく中での出来事を書き記している箇所です。「それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、舞台の全員をイエスの周りに集めた。」総督ピラトは主イエスの十字架刑を決めた後、主イエスを鞭打ち、十字架刑に処すため主イエスを兵士たちに引き渡したのです。
兵士たちは主イエスを総督官邸に連れて行き、官邸の庭の広い場所に部隊の全員をイエスの周りに集めたのです。その数は言葉通りであれば、600とか1000という数にのぼる大変な人数です。そしてここから主イエスを取り囲むようにして、主イエスを侮辱するのです。主イエスはピラトによってローマの治安を乱す政治的騒乱の首謀者として死刑となった。しかもそれは十字架刑だった。当時ローマがこうした政治犯を処刑する方法は他に火あぶりや、絞首刑などあったにもかかわらず、その中でも一番残忍で苦痛を伴う十字架刑が選ばれたのでした。この刑そのものがなぶり殺しの刑で、死ぬまでに長時間かかる刑であり、侮辱極まりない刑だった。そこには、これまで見てきたように祭司長や、長老たちをはじめユダヤ宗教勢力の思いや、は、人々の思いが交錯しています。そしてこうした政治犯を兵士たちが処刑の前にいたぶり、嘲笑し、侮辱した、それはある種の見せしめのようなものだったのかもしれません。
「そして、イエスの着ている物を剝ぎ取り、深紅の外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、右手に足の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」といって侮辱した。」主イエスの着ているものを皆の前で剥ぎ取り、兵士たちが用意したものを身につけさせる。深紅の外套というのは、緋色のコートのようなもので、王が身につける外套を形と色だけ似せたものを着せ、王冠の代わりに茨で編んだ冠、茨冠を頭に押し付けるのです。おそらく棘が突き刺さり、頭から血が出たでしょう。そして王が持つ「王笏」という四角い盾の代わりに葦の棒を持たせた。そうやって王として形を擬して、「ユダヤ人の王、万歳」といって主イエスを侮辱したのです。
兵士たちはさんざん愚弄したうえで、「また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を叩いた。」唾を吐きかけるというのは、最高法院での裁きの際にも人々がイエスの顔に唾を吐きかけています。洋の東西を問わず、人を侮蔑し、侮辱する行為、相手に対する最大の侮辱行為です。そして手に持たせていた葦の棒を取り上げて、茨の冠の載っている頭を叩いたのです。あるいはこのために茨冠をかぶせたのかもしれない。棒で茨の刺さった頭を叩くのですから、残虐行為そのものであり、これ自体死に至るような暴力行為です。
「このようにイエスを侮辱した挙句、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いていった。」
読んでいて目を覆いたくなるような場面の連続です。つらい。しかしわたしたちはただこのシーンを目を覆って、見て見ぬふりをするわけにはいかない。この十字架への道行きの場面をしっかりと見つめなければならない。
それは、この場面も含め、キリストの十字架への一つ一つの出来事は、偶然によるものではない、ということです。たまたま悪い祭司長たちがいて、たまたまたちの悪い長老たちがいて、群衆がいて、たまたま悪い総督がいて、こういうことになっていったのではない、ということです。
主イエスの御意志と決断の中で、主はこれらの出来事を引き受けておられる、ということです。そのことは先週もわたしたち御言葉を通して受けとめてきたのですが、さらに踏み込んで、そのことをしっかりと受けとめたいのです。
主イエスの最初の歩みを思い起こしたいのです。主の伝道の歩みは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるところから始まりました。洗礼者ヨハネはヨルダン川でこう語っていました。「差し迫った神の怒りから免れると誰が教えたのか」。神の意思に背いて生きている人間に対して、ヨハネは神の怒りがあなた方に臨んでいる、それを誰が免れるのか、つまり誰もが神の怒りを免れない、そう言ったのです。
主イエスはそのヨハネから洗礼を受けていかれるのです。なぜなのでしょうか。
洗礼はヨハネにとって罪人が神によってその罪の洗っていただき、赦しを受けるものでした。なぜ主イエスは洗礼を受ける必要があったのでしょうか。主は罪の洗いを必要としない方だったのです。それにもかかわらず、主はヨハネから洗礼を受けられた。それは主イエスが罪人の一人となって、罪人の罪を身に負うて、神による赦しを受ける人間となられることをここで示されたということに他ならないのです。
つまり主イエスの洗礼は、わたしたちの罪を負って生きるというキリストの召命の徴なのです。その場合のわたしたちの罪というのはヨハネの言う神の怒りを免れることのできないものなのです。わたしたち一人一人が、そういう罪の中で生きているのです。その罪を負うということは、罪への怒りとしての神の罰を受ける、という主の召命です。召命ということはそのために自分は命を献げるということです。
主イエスはさらに弟子たちに折に触れて語っておられたことがあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た」という言葉です。この人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た、仕える主である、ということ。しかもその仕えるは、ただたんに奉仕するというようなことではなく、罪人のために自分のいのちを献げる、という仕え方なのだということを主は何度も語っていかれたのです。
ということは、主イエスはヨハネからの洗礼において、ご自分が人間の罪を負っていくものであることを意志され、しかもその罪に対する神の怒り、神の罰を受け、罪人のために自分のいのちをささげていく、という御意志と使命の中で歩まれたということです。
さらに主は、洗礼者ヨハネが殉教の死を遂げた後、こうご自分の受難予告を語られました。「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはありえないからだ。」自分の道とは、神の怒りの中にある人間の罪を負って、その怒りの罰である死を自分の身をもって受けることでした。主イエスの生涯は仕えるための生涯、罪人の罪を負う生涯、その罪を負って自分のいのちを献げるという意思と決断の歩みでした。
主イエス・キリストはこの召命の中で、ご自分の意思と決断において歩まれました。したがって、祭司長や長老たちによって逮捕されたことも、避けようと思えば避けられる道であったでしょうが、キリストはご自分の意思と決断においてこの道を避けない。それを受けていかれる。最高法院での裁きも、止むを得ず受けられたのではない。受けるべくして受けていかれたのです。ユダの引き渡しも、弟子たちの逃げ去りも、ペトロの否認も、すべて人間の罪であって、その罪人の罪を負って十字架に架かることを意志され続けておられるのです。
それはすなわち、罪人が受けるもの受けていかれるという主の御意志です。
罪人が、求刑され、罪人がその罪のゆえに愚弄される、嘲笑されて、兵士たちによって愚弄される、それを受けていかれる、というのも主の御意志です。罪人の罪の罰、それが十字架刑であるなら、それを受けていかれる。しかしそこにはたくさんのことが纏わりついてくるのです。逮捕されることから始まり、弟子たちの離反、ユダヤの宗教者による裁判、ローマ総督による裁判、群衆の攻撃、全部十字架に向う中で起こってきた事柄です。そしてそのすべてが人間による出来事、罪人である人間による出来事である以上、主イエスはその全部を受けていかれるのです。
すでに何度か申し上げているように、キリストはユダの引き渡しや、弟子たちの離反ということもご承知の上で、最後の晩餐の時を持ち、そこで「取って食べなさい、これはわたしの体である。」と言われたのです。さらに主は、杯を取り「これは罪が赦されるように多くの人のために流されるわたしの契約の血である」と言われたのです。これは、罪人のためにご自分の身体を先、ご自分の血を流される、キリストの御意志と決断の中で語られた言葉です。
キリストはその伝道の歩みのはじめから一つところを見つめられ、ご自分の召命から離れることなく、罪人のために、歩んでこられたのです。
今日の聖書箇所は最初に申し上げたように、目を負いたくなるような、人間の卑しい姿が描かれた、情けない罪人の姿が描かれた聖書箇所です。
そして主イエスがこの罪人のゆえに、罪人のために十字架に架かろうとしていることに気づかず、キリストをいたぶる姿は人間の愚かを否応なく映し出しています。しかしそれは何もこの兵士だけでなく、祭司長たちも、長老たちも、主イエスを十字架につけろと叫んだ群衆も、そして総督ピラトも皆同じです。けれども、何度でも言いますが、主イエスはこの罪人のために罪を負い、罪の罰を受け、ご自分のいのちを献げることを意志され、決断され、ご自分の召命として受けとめておられた。わたしたちそのことに深く深く感謝したい。そのキリストによる恵みのわざを心深く受けとめたい。その十字架によって救われている自分に日々気づかされていきたい。その恵みを忘れないで生きていきたい。そのために主のご受難の歩みから目を逸らさず、わたしのために苦しまれる主イエスを仰ぎ見たいと思うのです。