マタイによる福音書連続講解説教
2026.3.22.受難節第5主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書27章45-56節『十字架で死なれるキリスト』
菅原 力牧師
今朝皆さんとご一緒に聞きます聖書箇所はイエス・キリストの十字架における死の場面です。この聖書箇所を読むということは、この場面そのものに丁寧に聞きつつ、これまで申し上げてきたようにキリストの生涯に思いを巡らすということです。
さて主イエスが十字架につけられたのは何時ごろだったのか、昼の十二時には全地が暗くなり、午後3時ごろ、主は大声で叫ばれたのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしを見棄てになったのですか」という叫びです。言うまでもなく、これは絶望の言葉です。希望が見えない、神に見捨てられたものの叫びです。皆さんの中にはこの主イエスの叫びを初めて聞いたとき小さからぬショックを受けた方もおられるのではないでしょうか。この十字架上での主イエスの叫びを聞くときに、わたしたちは、あらための主イエスの御生涯とは何だったか、思わないわけにはいかない。
これまでも何度か申し上げてきたように、神の御子であるキリストは人となられたのです。この世にお生まれになられた。そして主はヨハネから洗礼を受けられるところからその歩みを始められた。洗礼を受ける必要のない方が洗礼を受けられた。それは主が罪人の一人になって、罪人の罪をご自分の身に負うて、神によって赦しを受ける以外にない人間となられたということです。しかも主イエスはそのことをご自分の生涯の中心に据えられたのです。つまり十字架は主イエスにとって誕生の目的と言っていいことだったのです。
人間の罪を身に負うて、と言いましたが、人間の罪は神によって裁かれるべきものです。したがって、罪を負うということは、罪の裁きを受ける、ということであり、その裁きを受けるために主は十字架へと向かわれたのです。裁きを受けるための御生涯であったともいえるのです。わたしたちは自分の罪を断片的に、部分的に、自分の都合に合わせて理解してるかもしれない。しかし人間の罪の深さ、深刻さはキリストにおいて知らされる以外にはない、それが聖書の語るところです。十字架で示されるのは、人間の罪は死に値するものである、ということです。わたしたちは正直自分の罪がそれほどとは思っていないのではないか。真剣に、まじめに反省すれば、それで何とかなるのではないか、とどこかで思っているのではないか。
しかしキリストの十字架が示すのは、人間の神の前での罪の深さ、重さです。そして、その罪の罰は死だけではなく、神に見棄てられる、という罰をも含むものだったのです。これもまた私たちがほとんど考えていないことの一つです。神から見捨てられたら私はどうなるのか、考えていない。
キリストは十字架で、わたしたち罪人の罪を負って、その罰を受ける、それはよく聞くことです。しかし、神が下す罪人のへの罰は、死です。その死はたんなる死ではなく、遺棄される死、つまり、見棄てられる死ということです。この二つは深く関連し合っています。つまり神との関係の断絶ということです。関係の遮断ということです。キリストはここで神との関係の断絶の前でそれを全身で受けて、今叫んでいる。神の断罪の恐ろしさの前で叫ぶキリストは、神の裁きと真正面から、向き合っている人としての姿、という他ない。人となり給う極みの姿と言えるかもしれません。
確かに、わたしたちがこの福音書で聞くのはインマヌエルの神、神我らと共になのです。神さまはいつでもわたしたちと共にいてくださるという根本メッセージです。しかしそれは誤解のないように言えば、わたしたちの罪をないがしろにして、罪の問題は無頓着に我らと共におられる神ではない。むしろわたしたちにとって、根本的な問題である罪と死をとことん問題にされて、その罪を断罪し、罪を罰して、赦しを与えて、わたしたちと共にいてくださる神なのです。つまり罪の問題を突き抜けて、真正面から引き受けてくださって、インマヌエルの神であり続けてくださる神なのです。
わたしたちが神がなぜこの世界に御子を与えて、地上を生きる一人と人間とされたのか、よくよく考えてみる必要があります。クリスマスだけ切り取るようにして見るなら、この暗い世界にキリストがお生まれになって、インマヌエルが顕わになった、という話のように聞こえますが、イエス・キリストがこの世に来られたのは、神の御意志への服従と、明確な使命と、召命とがあってのことです。そしてそれは、十字架への召命、と言っていいものでした。ここで人間の罪を負うのです。ここで人間の罪への罰を受けるのです。そしてそれによって神の救いへの道が拓かれると信じておられた。だがそれは主イエスにとって、その罰としての苦しみをそのままに受けること以外ではなかったのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主の叫びは古来さまざまな形で解釈されてきました。しかしまちがいなく言えることはキリストはここで神の罰を全身で受けておられるということです。罪を罰する死も、罪の代償としての神から見捨てられることも、キリストは受けていかれるのです。私たち人間の罪は、神から見捨てられても仕方がない罪であり、罪人です。その棄てられること、遺棄を満身で負うのです。けれども私たちの実感は十字架の断罪から遠いのです。無頓着であり、なおざりなのです。キリストはここで一人の人間として、その人間受けるべき罰を、己が身を差し出して受けていかれる。しかもそれは先週われわれが聞いたように、自分で自分を救えないものとしてその罰を受けるのです。自分では手の施しようがないのです。
先週の説教で人とは自分を救えないものだ、というお話をしました。自分の罪からも自分の死からも自分では救えない。人々は口を揃えて「他人は救ったのに、自分は救えない」とののしったのです。しかし人間とはそういうものなのです。けれどもそのことを真実知った者は、つまり神の前で知った者は、この自分で自分を救えないこのわたしにおいて神は働いてくださるということを知らされていく、ということを申し上げました。
人間は自分の罪と死においては、自分を救えない。無力。しかしその無力の中で生きて働く神を知るのです。キリストはこの十字架において、ご自分の無力を知っておられた。神が人間の罪を罰するその裁きにおいて、遺棄において、無力ことを知っておられた。自分は鞭打たれ、傷つき、裁きを受け、死んでいく。全く無力。しかしキリストが十字架を避けないで、十字架に向われたということは、人の無力の極みで働かれる神を信じおられるからに他ならない。キリストはここにおいても、あらゆるときに働き給う神を信じて、十字架に架かられた。
だからこそ、キリストが十字架で叫ぶのは、「わが神」なのです。「わが神、わが神」と叫ぶのです。つまりこれはキリストの祈りの叫びをあげた、ということ。
「そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒につけて、イエスに飲ませた。他の人々は、「待て、エリヤが彼を救い来るかどうか、見ていよう」と言ってた。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」エリヤは終末においてメシアに先立って現れると期待されていた預言者、そのエリヤが来るかどうか見てやろう、という人々の声の中、主は再び大声で叫び息を引き取られたのです。主が息を引き取られた直前、もう一度大声で叫ばれたというのです。その言葉は人々には聞き取れないものだったのでしょう。51節から53節まで、不思議な出来事が記されています。まず神殿の幕が真っ二つに裂けた、ということ。地震が起きたこと。岩が裂け、眠りについていた人々が生き返った、そしてその人たちは主イエスの復活後、エルサレムの都に入り多くの人に現れたということ。この箇所をどう読むか、ということはとてもむずかしい。一つには一番古いマルコによる福音書にはこの部分、幕が裂けたこと以外には何を記されていないからです。つまり明らかにマタイが加筆した部分なのです。なぜ、どうして加筆したのか。長い議論は割愛して、わたしが受けとっている結論だけを申し上げます。マタイはイエス・キリストの十字架の死を受けとり、人間としては、ここに罪の裁き、遺棄される死を見ている。それは確かです。イエスの十字架の死を些かも美化していない。
しかし同時に、このイエスの死において働き給う神がいる、もちろんそのことはこれは主イエスの復活によって明らかになるのですが、そのことをここに、黙示的ビジョン、黙示録を読んだ時にたくさんのビジョン・幻視・幻・未来像が出てくる。おそらくマタイを含め、マタイの周辺の人たちの中に、このイエス・キリストの強烈な死の中で、このような黙示的ビジョンを見た人たちがいた。マタイはここに黙示的なビジョンを書き添えたのだと思います。たんなる創作ではない。むしろマタイはその黙示的なビジョンを書き添えることが重要だと信じたのでしょう。
百人隊長は「まことにこの人は神の子だった」と告白しています。マルコではこの告白は十字架の死の直後です。おそらくそうだったのだろうと思います。マタイその間に黙示的ビジョンを挟み込んだ。百人隊長の告白は十字架で罪を断罪され、当時の人々が受けとめていた十字架刑は神からの呪いの刑だ、という中で、満身で苦しみ、なお神への祈りの叫びをあげる主イエスの姿を見ての告白だったのだと思わされます。
わたしたちは各自、この受難節の中で、十字架の主イエスを見つめ直しましょう。いったい何のためにこんな苦しみを受け、絶望を味わい、十字架に架かっておられるのか。十字架に向うことから逃げ出すことなく、十字架へとひたすらに歩まれた主。この十字架刑のためにこの世においでくださった主イエス・キリスト。わたしたちはイエス・キリストの生涯を振り返りながら、十字架の前で立ち止まり、十字架の主と神の御意志に対して、深い深い感謝を献げることから、歩みなおしていきたいと思います。