ルカによる福音書連続講解説教
2026.7.19.聖霊降臨節第9主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書4章14-30節『 主イエスの宣教の開始 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所は主イエスが悪魔の誘惑を経て、宣教活動を始められた、その最初の歩みを書き記した箇所です。マタイやマルコの宣教活動のはじめと比べると大きく違っていることに気づかされます。
さてルカ福音書のここまでの物語を振り返ると、主イエスはその誕生のときから聖霊を受け、聖霊に満たされて歩んでこられたことが分かります。聖霊の導きによって荒野に導かれ、悪魔の誘惑を受けられた。聖霊に満たされて宣教活動へと歩みだす。そこから示されるのは、聖霊の導きとはわたしたちを自分の都合のいい現実に導くものでも、自分の願いが叶うことでもなく、神の意思されるところへと招き入れられ、押し出されていくことだといえるのです。そして今、主は聖霊に満たされて、ガリラヤへと戻られ、宣教活動を開始されるのです。23節の人々の言葉からすれば、主はガリラヤのカファルナウムで宣教活動を始められ、会堂で教え始められた。その結果、主イエスの噂が周囲に広まったのです。
「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつもの通り安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。」主はカファルナウムに続いて郷里ナザレに行かれました。距離にして45キロ程度、徒歩10時間。ガリラヤの移動と言ってもずいぶん広い。ユダヤの民がそうするように安息日に礼拝堂シナゴーグに行かれ、聖書の朗読をされました。主イエスに預言者イザヤの巻物が手渡されたので、主はイザヤ書の中から、何箇所かの聖書箇所を朗読されました。これはもちろんたまたま開いたところ、というようなことではなく、イザヤ書の3箇所が繋ぎ合わされての聖句で、主が宣教の開始にあたって朗読された神の言葉であります。
「主の霊がわたしに臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、囚われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
主イエスはこのイザヤ書の言葉に、ご自分の宣教の言葉を重ねているのです。つまりこれは旧約聖書で語られた神の言葉であると同時に、主イエスがご自身について語られる主イエスの宣言でもあるのです。ご自分が何者であるのか、を語り、主の宣教の中心内容が語られてもいるのです。
聖霊がわたしに与えられ、主が油注いだもの、神によってたてられたものとして、貧しい人に福音を告げ知らせ、囚われている人に解放を告げ知らせるために、わたしは遣わされた。主の恵みの年を告げるため、とは、ユダヤにあったヨベルの年のことで、50年に一度やってくる年には恩赦、大赦があり、罪人がゆるされた。主イエスはそのことからわたしが来たのは、罪の赦しを宣べ伝えるためだ、とここで語られたのです。
貧しい人に福音を告げ知らせるため、という貧しい人とはどういう人のことなのでしょうか。経済的な貧しさ、というのがまず頭に浮かびます。しかしそれだけではない。心の貧しい人、という言葉や、さまざまな意味で貧しいは使われる。その後に続く、囚われている人、目の見えない人、打ちひしがれている人、それらの人々を含む言葉として語られています。
しかしここで主イエスはこの貧しさという言葉をそうした様々な意味を含みつつも、もっと深く神との関係において使っているのでしょう。つまり貧しさとは神との関係の豊かさから離れている人々のことなのでしょう。真の豊かさとは人間が自分で作りうるものではなく、人が神との関係の中で、神との交わりの中で、神の愛と恵みの中で受け取り、満たされていくものです。主イエスがこの世界に来られた背景には人間の貧しさ、ということがあった。人間が罪故に神との関係がねじれ、引き離され、その豊かさから遮断されて、貧しいものとなっている、ということがあったでしょう。主はその貧しいもののためにこの世界に来られた。何者かに捕らわれて、神から離れ、神を仰ぎ見ること少なく、神から遠ざかることで打ちひしがれている者のためにこの世界に来られたのです。そしてその者たちに、解放と、自由を与えるために歩まれた。罪に縛られているものを解放し、罪によって不自由になっている人間に自由を与える、主イエスは旧約の預言者の言葉において、まさにご自分の使命とご自分の存在とを明らかにされた。そして主は、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と語られたのです。
旧約のイザヤの預言は今、わたしが語るこの言葉を信仰を持って聞くときに実現したのだ、と主は語るのです。その今日とは主イエスが語られたその時であり、今わたしたちが信仰をもってこの言葉を受けとるその時です。すなわち今日は主イエス以後ずっと、今日なのです。
この主イエスの語る福音に郷里の人々は感嘆しました。主イエスを褒めた。しかし同時に、「この人はヨセフの子ではないか」と言い出したのです。「何か偉そうなことを言っているけれど、大工のヨセフのせがれではないか。」ということでしょう。それは郷里ナザレという小さな町の地縁故の物言いです。子どものころから知ってるよ、ということ、その人をその人として見る視点ではなく、出自や生い立ちから見ていく視点です。
主イエスはそうして郷里の人々の視線を強く感じる中、「あなた方は、『医者よ、自分を治せ』という諺を引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』というに違いない。」と言われた。これは何を言っておられるのかというと、既にカファルナウムで、主イエスが力あるわざ、癒しの業や奇跡的な行為をなさっていたのでしょう。医者よ、自分を治せ、という諺は医者は他のどこの地域よりも故郷でこそ病気を癒せ、という意味の言葉で、イエスよお前が神からの特別の力を受けているなら、ここナザレでこそその力を発揮しろ、という郷里の人々の思いを主は敢えて先取りして語っているのです。
主イエスはそういったうえで、「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」という有名な言葉を語る。その上で主イエスは25節から旧約の二人の預言者のことを語り始めるのです。
エリヤの時代に大飢饉があり、イスラエルには多くのやもめがいたのにエリヤはその中に誰のもとにも遣わされず、異邦人のやもめのもとに遣わされた。またエリシャの時代には重い皮膚病にかかっている人がたくさんいたが、シリア人ナアマンだけを清めた。この二人の預言者に共通しているのは、二人とも異邦人を助けたということなのです。
この話を聞いた会堂内の人々はみな憤慨し怒りを覚えたのです。そしてイエスを町の外に追い出し、山の崖まで連れていき突き落とそうとしたというのです。今の言葉でいうリンチです。まことに激烈な話。主イエスの宣教活動の開始とともに、こうした敵愾心を持つ人々が一気に登場してきたというのですから。マタイやマルコにはない宣教開始の出来事です。
主イエスがした二人の預言者の話が人々の怒りに火を注いだ。それは主イエスの故郷の人々が救いはユダヤ人のみのものであり、誰よりまずユダヤ人こそ救われる、と頑なに信じていたからです。主イエスが故郷ナザレでこそその力を発揮しろとあなたたちは言うだろう、しかしわたしは故郷を超え、民族を超え、神の前で貧しい人々に福音を語り、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが福音による解放を与える、というその言葉に故郷の人々は激怒したのです。
というか故郷の人々にはまったく分からない話だった。ユダヤ人という血の繋がりの中で、さらに故郷ナザレという地縁の中で、神の救いの業はここにこそあると信じている者たちにとって、地縁血縁を超えて、民族を超えて、誰であれ、神の前に貧しいものに対して、神の恵みの福音を語られ、解放の福音が語られる、それは聞いている者にとって全く分からない言葉だった。しかし、ルカ福音書における主イエスの宣教の開始のその最初の言葉は、まさに貧しい人に福音を告げ知らせる、その主の言葉であり、冒頭で申し上げたように、この主の言葉には、主イエスが何者であり、その宣教の中心的内容が語られているのです。
主イエスが救い主として語られるその福音は、民族宗教の枠組みを超えていく。つまり世界宣教という視野の拡がりがあるものです。ルカはそのことをしっかりと聞き取っていたからこそ、他の福音書にはない続編使徒言行録を書いたともいえます。
イエス・キリストの福音を宣べ伝えることはこの宣教開始の出来事が示しているように、反対勢力を生み出していくことにもなります。なぜなら福音が語られることで、福音でないものとの明確な線が引かれるからです。福音は地縁血縁を超えていきます。そのことに捕らわれない。そのことで敵対する人々が出てくる。何かに捕らわれている人を解放する福音の力の前で、囚われていることに自足し、満足している人は抵抗を示します。罪の力に捕らわれていても、そのこと自体に満足している人は少なくなく、罪からの解放を告げる福音は、そこで激しくぶつかるのです。
わたしたちは主イエスの宣教の開始をただたんに昔の話として聞くということはできない。わたしたちが福音を宣べ伝えようとすれば、大なり小なりこのことにぶつかっていくからです。ルカは主イエスの宣教の開始が称賛を受け、褒められるものであったことも書き記す。しかしそれだけではなかったことも、むしろそうではなかったことが大きかったことを精確に書き記す。しかもそれは聖霊の導きのうちにある主イエスにおいて起こったことであることを書き記しています。わたしたちはこの主イエスの宣教の始まりの中で、すなわちその継続の中で自分がキリストへと招き入れられたことの意義を深くかみしめ、この宣教の業に連なるものとしての自分を深く自覚していきたいと思います。