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ルカによる福音書連続講解説教

2026.8.30.聖霊降臨節第15主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書5章17-26節『 あなたの罪は赦された 』

菅原 力牧師

 「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々や律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのあらゆる村や、エルサレムから来ていた。」

主イエスの宣教の歩みが続けられていく中で、主イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が集まってきたことが前回読んだ最後のところに記されていました。その集まってきた群衆の中には、ファリサイ派と呼ばれる人々や、律法学者たちも加わるようになってきたというのです。この人々は、ユダヤの宗教的な指導者層です。その人たちが主イエスの話を聞きに来る。それがどういう動機からだったのか、ここには何も書いてないのですが、群衆が集まるような評判を聞きつけて、どんな話をするのか調べに来たのか、一(いち)信仰者として、話を聞きに来たのか、わかりません。しかしガリラヤからだけでなく、ユダヤ全体から、そしてエルサレムから来ていた、ということは評判、風評、噂が相当な勢いで広まっていたということでしょう。

 この時主イエスは誰かの家の中で話をしておられた。そこに多くの人々が入り集まり、さらに家の周りにも人々が大勢いたということだったのでしょう。

 「すると、男たちが身体の麻痺した人を床に乗せて運んできて、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。」以前の新共同訳聖書はこの人の病名を中風と訳していましたが、現在では脳血管障害における麻痺ということで、この訳語を当てたのでしょう。自分一人では主イエスの許に来れない人が、何人かの人に板に乗せられて、運ばれてきた。しかしたくさんの人だかりで、家の中はもちろん、イエスの近くにも行けそうもない。そこでこの運んできた人たちは、なんと屋根に上って瓦をはがして、病人を床ごと群衆の真ん中につり降し、イエスの前に置いた。」のです。全く驚いてしまうことをしている。人の家の屋根の瓦を剝がすなんて。ところがここに不思議なことがあります。当時のユダヤの庶民の家の屋根は瓦は使われていない、ということです。ユダヤでは角材や粘土を用いて屋根を作るのです。つまりこの瓦というのは、福音書の著者ルカの自分の馴染みの屋根を書き込んだのでしょう。いずれにせよ、屋根の一部を剥がして、病人を吊り下ろした。そして「イエスの前に置いた」のです。ここには、なんとしてでも、自分たちが運んでいる病人を主イエスの前に連れていきたいという強烈な意思、熱意、があります。

 その場に居合わせた人々も、この行動には驚いたことでしょう。

 すると「イエスは彼らの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われたのです。この主イエスの言葉は、その場に居合わせた人たちに意外というか、唐突、違和感を覚えさせたのではないでしょうか。切羽詰まった思いで病人を運んできたのです。この人なら治してくださるのではないか、と思って運んできたのです。

 それなのに、病の治療ではなく、「罪の赦し」の宣言をされた主イエス。運んで来た男たちはもちろんのこと、居合わせた人々も、違和感を覚えたでしょう。それだけでなく、そこにいた律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエスがいきなりの罪の赦しを告知したことに強く反応したのです。

 「神を冒瀆するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ。」確かにここで、この人たちが、こう論ずるのは当然と言えば当然なのです。罪の赦しを宣言できるのは、ただ神のみ。わたしたちはただ罪の赦しを、願い、祈るだけのこと。それを祭司でも律法学者でもない、ただの男が宣言するとは、まさに神を冒瀆している、それが彼らの非難でした。

 すると主イエスは、律法学者たちの考えを見抜いて、こう言われたのです。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』というのとどちらが易しいか。」と尋ねるのです。そして、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われたのです。

 主イエスの問い、『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて歩け』というのとどちらが易しいか、つまり、罪の赦しと癒しの奇跡、どちらが易しいか、と尋ねておられるのです。どうしてこのような問いかけを主イエスはなさったのでしょうか。

 罪の赦しは目に見えないものです。癒しの奇跡は目に見えるものです。それで人々の中には、目に見える奇跡よりも、目に見えない赦しの方が易しいと考える人もいたかもしれない。罪の赦しは目に見えない、口先だけのこと、それよりも、今ここにいる病人、病を癒すことこそ、それが先決ではないか、と感じている人は多かったでしょう。律法学者たちはどうか。罪の赦しが人間にとって根本の問題ということは感じていたでしょうが、病の根っこには罪の問題がある、というような応報思想があったのも事実です。けれど、罪の赦しはそれは神にしかできないことだとこの人々は受けとめていた。

 そうすると結局、この場に居合わせた人々は、病の癒しこそ、イエスに求めていた、ということなのです。実際わたしたちもその場に居合わせたら、そうなるでしょう。

 しかし主イエスは罪の赦しの宣言をなさった。

もう一度主の問いかけに立ち戻ると、『あなたの罪は赦された、というのと、起きて歩けというのは、どちらが易しいか、』あなたはどう捉えていますか。どちらが大事で、どちらが必要なことだと感じていますか。

この問いはわたしたちを立ち止まらせます。たんなる二者択一でないことも次第にわかってきます。そもそもどちらも易しいことなどではない。

しかし、罪の赦しは律法学者たちが言うように、「罪を赦すことができるのは、ただ神だけ」なのです。まちがっていない。しかし、癒しの業は当時いろいろな形で癒しの業をなすものもいたかもしれない。だから罪の赦しの方が難しいのだ、ということを主は言いたかったのでしょうか。そうではないと思います。

 

 ではなぜ主イエスはこのような問いかけを人々にしたのか。

 男たちが病を患っている人を連れてきた。それも屋根に上り、瓦を剥がしてまで、主イエスの前に置こうとしたのです。そしてそれを主イエスは彼らの信仰とみてくださっているのです。他の人から見れば、いやそれは病人に対する友情の現れだとか、何とか助かってほしいという善意から来るものだろう、とさまざまに受け取られることです。信仰と見ておられるのは主イエスなのです。なぜ信仰とご覧になったのか、想像するしかありません。それはイエスの前に置こうとした、二度も繰り返されている言葉に示唆されているのかもしれない。

 わたしたちにとって根本的な罪とは、神から離反していくこと、神から離れていくこと、神抜きに事を進めようとすることです。

 今ここで病の人を連れてきているものは、まったく逆で、主イエスの前に、主イエスの面前にこの人を連れていく、そのことを願い、そのために動いた。この方が何らか神の使者であり、神からの力を受けている方として捉えているからこその行動なのです。神の子、救い主なるイエス・キリストという明確な理解はなくとも、神からの力を受けた方の前に、病の人を連れていく、その意思が男たちの中にあった。それを主は信仰とご覧になった。

 そしてもう一つ、ここでとても大事なこと。それは主イエスの人間を見るまなざし。それは一人一人、わたしたちは神の前で生きることで、真の人間になっていく存在だということを知っておられる方のまなざしです。病の人であろうと、社会からはじき出されたものであろうと、それが決定的なことではない。その人がイエス・キリストによって罪赦され、神のみ前で生きる者とされる、それが決定的に大事なことなのだ、という人間を見るまなざしです。主イエスはこの病の人に「あなたの罪は赦された」と宣言された。それは、神はあなたを決して見棄てない、という宣言です。どんな時も、わたしはあなたの神であり続ける、という宣言なのです。だから誤解を怖れずに言えば、主イエスは、罪の赦しの宣言で、十分だと思われた。そこに人間の根本の癒しがあるということを知っておられるのです。

 主イエスはわたしたちに罪の赦しを与えるためにこの世界においでくださった。わたしたちの罪を負い、贖い、赦し、神のみ前で赦されたものとしてわたしたちが生きるためにこの世界においでくださったのです。それが根本的な人間の回復です。神の前で、真に希望をもって、どんな環境、状況の中にあっても、罪赦され、神のみ前で生きることができる、癒しはそのことと分かち難く結びついているのです。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」そう言って「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」罪を赦す権威を持っていることを知らせようと言って、病の癒しの奇跡をおこなっておられるのです。不思議なことです。しかしそれこそが大事なことなのでしょう。人の子は救い主イエス・キリストのことで、地上でと言われるのは明らかに天上における神の意思を受け、神の業としての罪の赦しこの地上で実現する、ということです。その罪を赦す神の権威が、神の業が癒しを与えるのです。罪の赦しも、癒しも神の業なのです。キリストはその神の業をこの地上で行うために来られた。

 「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰っていった。」もうどうにもならない、と希望を失いかけ、絶望的になってもおかしくない状況の中で、仲間たちによって主イエスの面前に連れて行かれ、主イエスから罪の赦しの宣言を与えられた。神が、御子イエスが罪の赦しを与えてくださるのです。神はあなたを見棄てない。起きて、あなたの日常に帰り、神が共にいてくださるあなたの人生を歩みなさい。この人はこの日のことを忘れることはできなかったでしょう。どんな困難の時も、この赦しの宣言のもとに立ち帰って歩み続けていったのです。