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ルカによる福音書連続講解説教

2026.8.30.聖霊降臨節第15主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書5章27-32節『 罪人を招く主 』

菅原 力牧師

 今日ご一緒に聞こうとしている聖書箇所は、とても短い聖書箇所ですが、わたしたちがしっかりと受け取らなくてはならない大事なことが詰まった聖書箇所であります。

 「その後、イエスは出ていき、レビと言う徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも棄てて立ち上がり、イエスに従った。」主イエスの伝道の歩みの中での出来事です。それにしても、不思議な、普通に考えて、あり得ないような出来事です。

 おそらくは、主イエスとこのレビという人とは、初対面。それなのに、主イエスがいきなり、「わたしに従いなさい」と呼びかけると、レビは直ちに従った、というのです。驚くというよりも、不思議、としか言いようのない出来事です。しかし、この最初の文章を受けとめるのには、当時のユダヤ社会のことを理解する必要があります。

 いろんな機会に皆さんも聞いてこられたことと思いますが、当時のユダヤ社会にあって、徴税人は嫌われたり、軽蔑されたり、無視されたりする存在でした。当時ユダヤ社会はローマの支配下にあり、植民地でありました。したがって、人々はユダヤに納める税金と、ローマに納める税金との二重課税の中にありました。ここに出てくる徴税人はローマの下請け、お先棒を担いでいるものであり、仕事柄、ローマの人々とも接することの多い存在で、ユダヤの多くの人々から忌み嫌われ、穢れているとされていたのです。もちろんユダヤの人々も徴税人と税金を巡って関わらなくてはないこともあったでしょう。しかしそれだけに、普段は徴税人とは目を合わせたくない、見て見ぬふり、できるだけ関わりを持ちたくない、そういう存在だったのです。

 主イエスは通りすがりに、レビに声をかけたのですが、ここにあるように収税所に座っている徴税人を見たのです。これはだから、たまたま通りにすがりに見た、というのではないのです。みんなから、嫌われ、遠ざけられている徴税人をしっかりと見たのです。キリストのまなざしがレビに向けられた。そしてキリストは時候の挨拶をした、というのではなく、「わたしに従いなさい」と呼びかけたのです。いきなり、ど真ん中に向かう直球。レビには徴税人の仲間や、友人はいたかもしれない。しかしユダヤ社会の中でははじき出されていた。存在しているのに、その存在は無視されていた。そのレビをしっかりと見つめて、「わたしと一緒に歩んでいこう」とキリストが言われたのです。レビは主イエスのことをどれだけ聞き及んでいたのか、わかりません。しかしこの時、レビは本当にうれしかったのではないか。自分という存在を無視どころか、しっかりと目を留めて、一緒に歩んでいこう、とこの自分に向かって語りかけてくださっている、その声を聞いたからです。

ここには、わたしたち一人一人も、経験してきたことが語られています。それは、主イエスに従う、主イエスと共に歩んでいくということは、自分の決断や、自分の決意が先行するのではない。主イエス・キリストがわたしを見つめてくださる、そして主イエスがこのわたしに呼びかけてくださる、その呼びかけに応えるところで、主に従う歩みは始まる、という信仰の原点。わたしたちの信仰は、主イエスの「わたしと一緒に歩んでいこう」呼びかけ、それに応えるところ、わたしの決断や、意思が生まれて始まっていく。主に従うことの一番の要となること、それがここに記されていることなのです。レビは、キリストが自分を目を逸らさず見つめてくださったこと、そして自分に一緒に歩んでいこう、と呼びかけてくださったことの中で、自分という存在が受けとめられ、肯定されていることを他の誰よりも深く受けとめた。だから、彼は、何もかも棄てて立ち上がり、イエスに従ったのでしょう。

レビはその後、「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人たちやほかの人々が大勢いて、一緒に食卓に着いていた。」これを読む限り、レビは決して貧乏ではなかったことはわかります。そして先ほども申し上げたように、徴税人同士での仲間や、友人たちがいたこともわかります。レビはここで、主イエスのために宴会の席を用意したのです。それは仲間を招く席でもあった。つまり主イエスによって自分が呼びかけられ、共に歩もうと言われた喜びと感謝の溢れた宴会だったのでしょう。

「ファリサイ派の人々やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに文句をつけて言った。『なぜ、あなた方は、徴税人たちや罪人と一緒に食べたり飲んだりするのか。』」この宴会の席にファリサイ派や律法学者たちが招かれたわけではないでしょう。家の外から見ていて、尋ねたのかもしれません。あるいは30節以下は後日談なのかもしれない。いずれにせよ、ファリサイ派の人たちはこの様子を見て、主イエスに詰問してきたのです。

徴税人や、ユダヤ社会が罪人とする者たちと食事をするということは、大げさではなくユダヤ社会の根幹を揺さぶることでした。ファリサイ派の人々の問いかけはユダヤ社会においては当然すぎる問いと言ってもいいものでした。

 「イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」」有名な主イエスの言葉です。しかしこの主イエスの言葉が何を言おうとしているのか、誤解されていることも少なくないのです。

 この主イエスの言葉は、最初に格言のような、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」という言葉が語られています。

 健康な人は医者を必要しない。必要とするのは病人だ、当たり前のことです。

けれどもいうまでもなく、主イエスの救い主としての歩みと、医者の立場は違うのです。

 端的に言えば、今現在、健康な人は医者は確かに要らない。しかし救い主イエス・キリストを必要としない正しい人というのはいるのでしょうか。この正しい人と訳されている言葉はただたんに倫理的な正しさというのではなく、神の前で義とされる人、義人と訳せる言葉です。

 つまり主イエスを必要としない、義人がいるのか、ということなのです。主イエスの言葉は、この世界に健康な人に医者が不要なように、神の救いを必要としない人がいる、という意味ではない。すべての人は罪人であって、イエス・キリストの救いを必要とする、と言っているのでしょうか。しかしそうだとすると、何のために枕の格言を引っ張ってきているのか。

 ここで主イエスが言わんとしておられることは、こういうことです。

 確かに人間はすべて罪人であって、神の救いを必要している。けれども自分で自分のことを義人、正しいものだと思っている人はいる。自分は落ち度なく律法を守り、戒めを守り、正しい、と思い込んでいる人はいる。そしてその正しい人たちが罪人との接触を忌避して、線引きをする。

 主イエスは「わたしは義人を、正しい人は招かない」とここで言っておられるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言われた主は、「正しい人は招かない」と言われておられるのです。自分で自分のことを正しい、としている人、罪人と自分は違うのだ、と思い込んで線引きをしている人、わたしはその人たちを招かない、主はそう言われているのです。

 今ここで、主イエスを「なぜ、あなた方は徴税人たちや罪人と一緒に食べたり飲んだりするのか」と非難するファリサイ派や律法学者たち、この人たちは自分は罪人ではない、というところに立って、ものを言っている。自分たちは徴税人とは違うのだ、というところから、発言している。

 その正しさから一歩も出ようとせず、神の前に立って、おのが罪に気づこうとしない、その正しい人をわたしは招かない、そう主イエスは語るのです。

 自分は、欠け多い、弱い人間だから、自分のことを正しいなどとは思っていない、と思っている人は多いと思います。しかし実際には、自分の小さな正しさにわたしたちはこだわります。固執します。そして自分の正しさから相手を判断することも少なくない。自分の正しさの殻の中に入ってしまうことは少なくないのです。人とは自分の正しさに拘泥するものなのかもしれません。

ここに登場するレビも何も特別信仰深い人だったとは思えない。神と向き合って歩んでいたのかどうかもよくわからない。ただ、彼は多くの人たちからはじき出され、無視されて、ユダヤ社会から罪人の烙印を押されていた。それがどれだけ罪の自覚に繋がっていたかはわからないけれど、罪の烙印を押され、行き場のない苦しみを抱えていた。その彼を受け入れて、共に歩もうという主イエスの御声は、まさに罪人を招く声であり、罪人と共に歩む方の呼び声だった。この方はたとえ自分がどれほどの罪人であろうと、自分を受けとめて、自分と共に歩んでくださる、そのことを彼は受けとめ始めたのです。彼は主イエスを宴会を招いた。食事を共にした。主イエスに従うものでありたいと願った。それは主イエスと向き合って生きるということ、それが悔い改めるということの中身です。悔い改めるとは、ダメな自分から立派な自分になるというようなことではなく、神と向き合って、キリスト向き合って生きる、というそのことです。

人は神の前に立つことで、初めて自分の正しさに囚われている自分が一人の罪人であることを知るのです。神から離れ、おのが腹を神とし、神抜きで歩んでいけると思い、神と向き合い、神の言葉に聞いて生きることを忘れていく罪人であることを、人は神の前に立つことではじめて知るのです。

 レビは、キリストに呼びかけられ、招かれることで、それに応え、主イエスと向き合うものとされていった。そこで、初めて、烙印としての罪人ではなく、神の前での一人の罪人である自分を知る者とされていったのではないか。そして同時に、その一人の罪人であるわたしを招いて、負ってくださるイエス・キリストという方がおられることを、救い主イエス・キリストの存在を知る者とされていったのではないでしょうか。