ルカによる福音書連続講解説教
2026.9.13.聖霊降臨節第17主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書5章33-39節『 新しい葡萄酒は新しい革袋に 』
菅原 力牧師
断食という行為があります。食物を断つ行為。断食はいろいろな動機から行われるものでしょうが、その多くは宗教的な行為でした。断食修行という言葉もありますが、何らかの祈願や嘆願をあらわす行為として、また悔い改めの態度表明のため、喪に服する行為として、悲しみをあらわす行為として、いろいろな動機で行われ、現在も行われているものであります。
ユダヤ教においても断食の歴史は古く、出エジプト記にはモーセが断食したことが記されています。もともと律法で定められた断食は年1回でしたが、時代が下るに従い、断食は広く浸透し、新約聖書の時代、週に2回する人々もいました。ユダヤ教において、断食は欠かすことのできない宗教的行為として、日常の生活の中に定着していました。
先週わたしたちが聞いたのは、徴税人レビへの主の招き、召命の出来事でした。レビは主イエスの招きに応え、主イエスに従うものとなり、その感謝と喜びから宴会を開き、そこに大勢の人たちを招きました。その様子を見ていたファリサイ派の人々から主イエスに問いかけがあり、それにお応えになった主の言葉を、先週わたしたちは聞いたのですが、それに続いて、人々からの問いが主に投げかけられました。「ヨハネの弟子たちは度々、断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
この問いかけをした人々とは誰なのか、特定はできませんが、その人たちは断食を重んじ、自分たちの宗教的な伝統に忠実な人々、つまりユダヤ人として普通の人々だった。その人々からすれば、イエスはどんな形であれ神のことを宣べ伝え、弟子たちもいる、一つの宗教的なグループです。ヨハネたちのグループでも、他の人々も皆、断食を重んじ、悔い改めつつ歩んでいるのに、あなたたちはそうではない。罪人という烙印を押された徴税人レビを招き、「罪人を招いて悔い改めさせるためである」とまで言ったにもかかわらず、レビは悔い改めの断食をするどころか、宴会を開いて食べて飲んでの騒ぎ。いったい何を考えているのだ、ということだったのではないでしょうか。
その問いかけに対して主イエスはこう応えられたのです。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなた方にできようか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる。」主イエスがここで言われているのは、婚礼の席で花婿が一緒にいるのに、その喜びの席で断食するというようなことができようか、ということです。主イエスは断食そのものを否定しているのではないことがこの発言からもわかります。事実、主イエスご自身が悪魔の誘惑の前に断食しておられます。ここで言われておられるのは、今は断食のときではない、ということでしょう。ここで言われる花婿が主イエスのことだとすれば、神の御子であるイエス・キリストが今この世に在って共に歩んでおられるときに、断食は必要なのか。むしろ今主イエスと向き合い、そのみ言葉に、御業に心向けて共に過ごすときなのではないか、と語りかけておられる、とすれば、花婿が取り去られるとは、十字架における死を予示しておられるのでしょうか。その日には、彼らは断食することになる、とは主の十字架のときにはキリストが十字架上で担ってくださった罪を思い、断食する時が来る、ということなのでしょう。
主イエスはこの後二つの喩えを語られました。よく知られた喩えです。「誰も新しい服から布切れを切り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服からとった布切れも古いものには合わないだろう。」これは新しい服の布切れを切り取って古い服に継ぎを当てはしない。そんなことをすれば新しい服も破れたものになるし、新しい布切れは古い服には適合しない、と言っているのです。新しいもの古いものとは適合しない、と言っておられる。続く葡萄酒の喩えも同じです。新しい葡萄酒は発酵の途上にあるので、古い革袋にいれるとその革袋を破ってしまうという当時の人々がよく知っていることを語っている。だから新しい葡萄酒は新しい革袋にいれねばならない、というのです。
新しい葡萄酒という時、その新しい葡萄酒とは、イエス・キリストによって齎された福音、ということでありましょう。それは、これまでの宗教的な慣習や、これまでの信仰と思い込んでいたものでは受け取れない。新しい革袋、つまりその福音にふさわしい信仰で受け取るものなのだ、ということです。
断食という行為は、例えば旧約においてダビデが自分子どもが病気になったとき、その子供の命を助けてもらおうと、断食して神に祈るということが記されています。神に対して、自分の誠意を、必死の祈りを示そうとしたのです。それは祈りの姿勢でしょう。この断食という行為の中で、人間はこれほど自分を食を断って、必死に祈っているのだから、神は自分の願いを聞くべきであり、自分の熱心さを受けとめるべきだと言ったり、自分の断食という行為を誇るようにもなります。断食の時に苦しい顔をして、自分はこんなにも苦労して断食し、神に祈っている、だから救われてしかるべきだ、と。どんな行為もわたしたちは、それを誇ったり、根拠だてたりする。あんなに祈ったのに聞き入れられなかった、という言い方をしますが、祈りも断食も、そして施しも、わたしたちの罪の素材に変えていくのです。自分の宗教的な行為を誇ったり、それを救いの根拠とするような姿勢、そういう信仰はここで古い革袋と言われているものなのです。
今ここで問題になっている、花婿、新しい服、新しい葡萄酒、それはイエス・キリストの福音の比喩なのでしょう。
イエス・キリストの福音とは、キリストによる恵み、キリストによる贖いが、キリストの信実がわたしたちを救う、という福音です。わたしたちの行いがわたしたちを救うのではない。わたしがどれだけ断食を懸命にしたか、ということによって救われるのではない。わたしがどれだけ正しい人であるかどうか、ということがわたしの救いの要素なのではない。どれだけたくさんの時間祈ったか、どれだけたくさん施しをしたか、それが救いの根拠となるわけではない。
ただイエス・キリストの恵みと信実によるのです。だから、罪人が招かれるのです。罪人だから除外されるのではない。わたしという罪人も招かれるのです。誰であれ、この福音の恵みの中にあるのです。その恵みの中にあることを受けとめることこそわたしたちの信仰です。これがイエス・キリストによって齎される福音です。この新しい福音が与えられている今、わたしたちにとって必要なことは断食ではない。このキリストの福音を感謝して受けることなのです。
誤解のないように言えば、主イエスは断食を単純に否定しているのではない。断食することがあってもいいし、事実初代教会では断食はしばしば行われた。しかし、それは、断食することで神に近づくとか、救いを手繰り寄せる手段とするためではない。祈りとか、断食とか、施し、それは神の恵みを受けた者の応答の一つであって、そのどれもが応答の一つにすぎない。救いは主イエス・キリストから与えられ、わたしの断食という苦行によって齎されるわけではない。わたしたちはそれを感謝して受けることにこそ、心を向けるべきであり、そのことこそが大事なのです。
35節に「花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる」とあります。花婿が主イエスであるとすればそれは十字架の死から復活までの間のことでしょう。主の死を断食で悼むということでしょう。しかし主イエスはその後、甦って、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまうのです。そしてそこからわたしたちの執り成しをしてくださり、わたしたちの主であり続けてくださっているのです。ということは、わたしたちの今は、主が共にいてくださる今であり、目には見えなくとも、わたしたちのために今日も執り成してくださる主がおられるということです。だから、わたしたちは主が共にいてくださることを喜び、感謝し、今を生きることが大事なのです。
断食も、気づけば律法主義の温床になっていくということがあるのが人間です。自分の力で救いを得るような、立派な行いや宗教的行為で、正しい人間になることで救われるような律法主義から解放されていくことがなければ、新しい福音を受けとることはできないのです。39節に記されているのは、気づけば、古い葡萄酒のよさに酔いしれて、その中に安住する人間の姿を記しているのです。
わたしたちの信仰は、イエス・キリストの福音を受けることからしか始まらない。イエス・キリストの与えてくださる救いと恵みと信実を受けて、感謝して、キリストの言葉に聞きつつ、キリストの向き合いながら歩んでいく、それが新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる歩みになっていくのです。