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ルカによる福音書連続講解説教

2026.10.4.聖霊降臨節第20主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書6章20-26節『 幸いの告知 』

菅原 力牧師

 今朝の聖書箇所は平地の説教と呼ばれているところですが、その呼称自体、マタイによる福音書の山上の説教との平行関係を意識させるのですが、実際によく読んでみるとマタイの山上の説教とはずいぶん違います。

 例えば、マタイの方は幸いである、という文章が八つ+1、九つ並んでいくのですが、ルカは三つ+1、四つの幸い文章が並び、しかもルカにはその後災いあれ、という文章が4つ続くのですが、マタイにはそれはそもそもない。

 個々の言葉もずいぶん違います。長くなるので一つだけ言えば、ルカの6章20節は「貧しい人々は」となっていますが、マタイは「心の貧しい人々は」となっていて、明らかに指し示す内容が違うのです。それでこの二つの説教は、もちろんいろいろ重なり合いながらも、それぞれ独自の説教として読んでいくことが大事なのでしょう。

 さて、山から下りてきた主イエスの周りには多くの群衆がいました。その群衆も見据えながら、主イエスは弟子たちを見て、語り始められました。

 「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。」幸いだ、貧しい人々。神の国はあなた方のものである、という文章です。幸いが強調されているのです。貧しい人というのは、無一文で、物乞いするしかない人々を指す言葉です。岩波の新約聖書は乞食たち、と訳しています。意味としてはその通りです。最低限ぎりぎりの生活だが、何とか食っていける、という人を指す言葉ではないのです。なぜそんな貧しい人が幸いなのか、神の国は、神さまの御支配はあなた方のものだからだ、というのです。物乞いしなければならないような人に向かって幸いだというのは、あまりにも異和感が大きい、と思う人もいるでしょう。

 続く21節。「今飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる。」これも20節と全く同じです。違和感が大きい。そもそも、あなた方は満たされる、というのはいつの話なのか、と思う人もいるでしょう。今飢えているのです。やがて満たされるからと言って、それで納得できるような話ではない。続く、今泣いている人々は幸いだも、22節の言葉も。22節には、「その日には、喜びおどりなさい。天には大きな報いがある。」とあって、この満たされるとか、笑うようになる、というのは、終末の時のことなのだ、というのが分かる。終末の時の約束がここに語られているのか、と知るのですが、実は20節の神の国はあなた方のものである、というのは現在形で書かれていて、敢えて直訳すれば、あなた方はすでに神さまの支配の中にある、と語られて、21節以下が未来形で書かれているのです。

 それが24節以下の災いあれという部分も、正確に呼応しているのです。どういうことかと言うと、24節は「しかし、富んでいる人々、あなた方に災いあれ。あなた方はもう慰めを受けている。」と現在形で書かれ、25節以下は「今食べ飽きている人々、あなた方に災いあれ、あなた方は飢えるようになる」「今、笑っている人々、あなた方に災いあれ、あなた方は悲しみなくようになる」と未来形で書かれているのです。幸いと災いがまさに同じ形で向き合っているのです。ここで主イエスが語られる幸いと災いの約束は現在と将来が重なり合うのです。

 しかし。もう一度最初の言葉に戻って考えてみたいのですが、この「貧しい人々は、幸いである」という言葉は誰に向かって語られているのでしょうか。貧しいというのは、物乞いするしかないような貧しさだと言いました。主イエスの弟子たちは豊かではなかった人が多いかもしれませんが、物乞いしなければならないような人はいなかったのではない。例えばそれは漁師としての生計を立てていた人たちです。逆に24節で語られる、「富んでいる人々、あなた方に災いあれ」と言われるような富んでいる人が弟子たちの中にいたのか、と言うとそれもとても言えなかったのではないか。

 この説教は集まってきた民衆と、弟子たちに語られた説教だったのですが、群衆の中に、物乞いするような人がいなかった、と言い切れない。同じように群衆の中に「富んでいる人がいない」とも言い切れない。しかしいずれにせよ、その両者はとても限られていたのではないか。物乞いするほどの極貧の人や、食べ飽きているような富んでいる人が聴衆の中には少なかった。とすれば、この説教は、その限られた人々のための話なのか。大多数の人はこの呼びかけに無関係なのか、ということになります。

そうではないのではないでしょうか。主イエスの語りかけは、弟子たちに、そしておびただしい民衆に向って語りかけられている。

 主イエスがここで語ろうとしておられることの真意を知る必要があります。「貧しい人々」と呼びかけながら、神の国はあなた方のものである、と主は言っておられる。マタイでは主は心の貧しい人々は幸いである、と言った後、天の国はその人たちのものである、と語っています。つまり心の貧しいに限定して、その人たちのもの、と言っておられる。ところがここでは貧しい人々と呼びかけて、あなた方という二人称で受けておられる。それは明らかにより広い、弟子たちも民衆をも含むあなた方なのです。

 貧しい人、それは何度も言いますが、物乞いするしかない人、極貧の人でした。物乞いというのは、与えられるものを受けるほか術のない人です。物乞いというということはそういうことです。それは、わたしたち自身がただ神の恵み、イエス・キリストの救い、贖い、罪の赦し、それを受ける以外にはない存在だ、ということで深く繋がっているのではないか。わたしたちは自分自身の救いに関して、何か自分の中に持っているのではない存在です。わたしたちはパウロが言うように、ただイエス・キリストの信実によって救われるのであって、わたしたちの中には、自分の罪を贖うものはないのです。

マルティン・ルターは「わたしたちは乞食(物乞い)である。これは真実だ」という有名な言葉を語りました。それは人は誰であれ、神の前では憐れみを乞うだけの貧しい物乞いにすぎない、という意味の言葉でした。

 貧しい人、物乞いするしかない人、神から救いを受けるほか何も持たない者、キリストが語る言葉はここでわたしたちに落ちてくるのです。

 幸いだ。貧しい人。神から救いを受けるほか何も持たないもの。神の支配は、あなた方のものである。

 幸いだ。今飢えているひと。飢え渇きの中にあるもの。あなた方は満たされる。

 幸いなのは、ただ神から与えられていること、将来与えられること、つまり与えられるから幸いなのです。ただ受けるから、幸いだと言っているのです。貧しいことそれ自体、飢えていることそれ自体が幸いだというのではない。あなたには与えられるから幸いだというのです。

 人の子のためにあなた方を排斥し、罵り、その名を悪しき者として棄て去る時、あなた方は幸いである。天には大きな報いがある。キリストを宣べ伝え、キリストを証しする中で、排斥され、罵られ、棄て去られるとき、幸いだ、天において大きな報いがあり、それを受けるからだ。この最後の幸いだ、の文章は前の実っとは少し違い、貧しいとか、飢えている、という状態ではなく、キリストを証しする中で、排斥されていく、アクション、行動についての文章です。しかし、報いがある、報いを受けていく、受けることで繋がっています。

 20節から23節の主の言葉は、幸いだ、あなた方は。それは受けるものだからだ、という内容です。

 とすれば24節からの災いの言葉は、わたしたちがキリストの福音以外のもので、満たされ、豊かになっているのだとすれば、それもうすでに何か別物を受けてしまっているということにおいて災いなのです。この世のものでわたしたちがなんらか充たされ、神の救いをひたすらに受ける物乞いであることを止めてしまっているから、災いだというのです。それは決してめずらしいことではなく、物乞いが今日生きるために必死に物乞いするように、求めることを止めてしまい、何か他の物で満たされていき、神の救いの恵みに対しての飢え渇きを忘れていく。26節にある皆の人から褒められるとき、というのは、二つのことがあって、一つは、褒められるということで自分の中の何かが満たされていくということ、もう一つは皆の人に褒められ、称賛されていくことを思うあまり、この世に在って伝えるべきものを伝えず、証しすべき方を証しすることなく、すごすこと、ということが言われているのです。

 ここで語られている主イエスの言葉はある意味驚くほどシンプルであり、それゆえにこそ、聞き取り損なってならない、そういう主の言葉です。

 あなたは神のみ前で物乞い。貧しい。けれど、あなたは幸いだ。神の福音を与えられているから。与えられていくから。天の報いを受けるから。

 もしあなたが、ただ受け続けていくこと、日々物乞いであることを今自分が持っているもので満足して、止めてしまうのなら、わざわいだ。福音以外のもので満たされるというという実感はなくとも、神の前で求め続ける、物乞いを事実上止めしてしまうのなら、それは富んでいる人なのでしょう。

 主の言葉はわたしたちの人としての芯の部分というか、核の部分で、わたしは何者か、ということを問いかけてきます。神の前で、キリストの十字架の前で、貧しい者、物乞いするものとしての自分に気づかされながら、神から与えられるもの、キリストから与えられるものを、日々、終末に至るまで、受け続けるものでありたいと思います。