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ルカによる福音書連続講解説教

2026.10.11.聖霊降臨節第21主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書6章27-38節『 敵を愛しなさい 』

菅原 力牧師

 今朝の聖書箇所はいわゆる「愛敵の教え」と呼ばれるとても有名な箇所です。「敵を愛しなさい」という言葉は聖書を知らない人の間でも有名な言葉で、こうした言葉が有名になるのはそれなりの理由があると思いますが、そのことは後で触れるとして、まず、ここに何が語られているのか、見ていきましょう。

最初に「愛敵」の要求、敵を愛しなさい、と語られ、それに続いて愛敵に関わる三つの要求、「あなた方を憎む者に親切にしなさい。呪うものを祝福し、侮辱するもののために祈りなさい。」と愛敵を含めて四つの要求が主イエスからなされます。

次いで29節からは抵抗の放棄に関わる四つの要求がなされます。「あなたの頬を打つものには、他の頬も向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではならない。求めるものには、誰にでも与えなさい。あなたのものを奪うものから取り戻そうとしてはならない。」

そして31節には黄金律と呼ばれる言葉が出てきます。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」ここまで読んできただけでも、ここで主イエスが求めておられることのハードルの高さに圧倒されます。ハードルが高いというよりも、度を越えているという感じです。

最初の敵を愛しなさい、という言葉、この言葉は時に美しく響くのです。崇高、と言ってもいい。人類の目指すべき言葉、として時に響くのです。この言葉が聖書から切り離されて、特別有名になった所以でもありましょう。求めている倫理的なレベルがとびぬけているからです。敵ともできるだけ仲良くやりなさい、というのではなく、敵を愛しなさいというのですから。憎む者に親切、呪うものに祝福、侮辱するもののために祈る、それらは敵を愛することの具体的な行動について語っている。

さらに29節からはこれもまた有名になった言葉、あなたの頬を打つものには、他の頬も向けなさい、マタイ福音書の言葉、「右の頬を打つものには左の頬をも向けなさい」、で知られる言葉。そして上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない、これらは先に抵抗の放棄と言いましたが、実際には抵抗の放棄以上のことです。自分の方からさらに差し出していくからです。

「求めるものには、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪うものから取り戻そうとしてはならない。」人としての正当な権利もここでは放棄して、差し出していくのです。

そして31節では黄金律と呼ばれる言葉を語るのです。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」新約聖書の周辺世界の諸文献にしばしばみられるのは、「人にされたくないことを、人にもしないようにしなさい」という否定形の格言です。これなら受けとめられる。しかしここで主はそれをさらに積極的に展開しておられるのです。どうしてこれほどまでに凄まじいと言っていい愛の勧めを主イエスはなさるのか。

わたしたち人間一人一人が罪人であり、愛することにおいても貧しいものであることをご存じないはずがない主が、なぜこれほどの求めをわたしたちにするのでしょうか。高くて、とても厚い壁の前に立たされたような、めまいを感じる勧めと言ってもいい言葉を主イエスはこれほどまでに畳み込むようにして語られるのでしょうか。

32節から主イエスは、この「愛敵」の教えの根拠について語り始められます。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。罪人でも愛してくれる人を愛している。また自分によくしてくれる人によくしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」

 人間と人間の間には互恵の原則のようなものがあります。互恵とは恩恵を受けたものが恩恵で返すようなものです。よくしていただいたから、よくさせていただく。日常の生活の中でもビジネスでもそういうものは普通にあるでしょうし、どんな社会であっても、互恵の原則は生きて働いています。しかしここで主が言われるのは、それを超える行為の勧めなのです。

 返礼を期待できない相手によい業をする。

 「しかし、あなた方は、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」

 「いと高き方は、恩を知らないものにも悪人にも、情け深いからである。あなた方の父が慈しみ深いように、あなた方も愛しみ深いものとなりなさい。」

 ここで語られていることは、愛する根拠となる内容です。

 わたしたちは、互恵の原則のようなものの中で歩んでいます。それはわたしたちが社会の中で暮らすうえで大事なことですし、それがしっかりとできるということはそれ自体貴いことでもあります。しかしその関係というのは、あえて言えば「横の関係」です。一人一人が思いやりの心で、お世話になった人に礼を尽くし、自分のことを大事に思ってくれる人を大事する、すべて人と人との横の関係なのです。

 しかしキリストがここで持ち出されるのは、「縦の関係」です。「垂直の関係」と言ってもいい。神と人との関係。聖書だから神との関係、「縦の関係」が出てくるのは当たり前だと思っているわたしたちも、ここであらためて、この敵を愛せよ、という主の言葉を聞くためには、「縦の関係」ということにもう一度、あらためて眼開いていく以外には、無理なのだ、ということに気づいていかなければならない。つまり「横の関係」の延長線上、自分の思いやりや、人への気づかいとか、互恵を広げていく、より愛情豊かな人間になろうとする努力、そういうことで解決する事柄ではないのです。

 愛というものが何らかの形で互恵というものから限界突破していくのは、わたしたちの力によるのではないし、わたしたちの力では無理です。そこで「縦の関係」に心とからだを向けなければならない。神がわたしたちの愛しておられる、それは神の自己贈与、独り子をわたしたちに与える愛、自己贈与としての愛ということが根底にあるのです。神がわたしたちを愛するといって、それは自然的な関係ではない。例えば長く一緒にいることで情愛が湧いてくるとか、人間の存在が微笑ましいからおのずと情愛の念が出てくる、というようなものではない。情の世界ではない。あくまで神が意思されて、人間を救うために、神が罪人である人間を救うために、独り子を与えるという愛なのです。わたしたちには愛される根拠があるわけではない。ただ神がわたしたちに御子を与えて愛しぬいてくださる愛なのです。

 その贈与される愛にわたしたちが出会う、ということがなければ、このみ言葉は開かれていかない。

 そして神から贈与される愛を受けて、応答していく、それは、わたしたちの力というのではなく、聖霊の働きによるものなのです。縦の関係と言った場合、贈与されている愛、と言ってもそのことを受けとめていくのも、その受けとめの中で応答していくのも、聖霊の働きによって導かれるのです。神の愛を自力で受けとめて、その神の愛に自力で応答していくのではない。そこには聖霊の働きがある。だから縦の関係、垂直の関係とは、神から与えられ聖霊の働きを与えられ、上から与えられるものをただ受けていくこと始まるものなのです。

神がこの世にその独り子をお与えになってくださった。クリスマスの出来事です。クリスマス自体は世界に広まった行事ですが、神がわたしのために独り子をお与えになったということを受けとめられない人は多いでしょう。信じ難いからです。それはもともと、人間の自力で受けとめられることではないからです。独り子を神はお与えくださった、それを信じる人はそのように導かれてきた。聖霊の働きを受けとめてきたのです。その意味で聖書の言葉は、聖霊の働きの中にわたしを置いてください、という祈りの中で受けとめられていくものです。そして聖霊の働きの中でみ言葉に聞き、応答する者とさせてください、という祈りが大事です。与えられるものをあなたによって受けさせてください、という信仰です。

これが縦の関係です。この関係は不思議です。なぜなら互恵では全くないからです。ただ受けるのみなのです。この神からの贈与された愛に気づかされるとき、わたしたちが劇的に変化する、というわけではないでしょう。主の言葉通りに生きられるようになるというわけでもない。ただ、神から贈与された愛の中にある自分を知らされて生きる歩みが始まるということなのです。35節からの主の言葉は、この神の贈与の愛によって生かされている、ということを受けとめながら生きることへの促しでしょう。37節以下で語られる裁きの話も、神から与えられている赦し、贈与としての赦しの中にある自分を知って生き活かされるということです。わたしたちの生活はある意味横の関係の中で営まれているし、それがすべてだとも思いがちです。しかしイエス・キリストのみ言葉はわたしたちをその横の関係性の中で、上から与えられる縦の関係、垂直の関係へと呼び覚まし、覚醒させていく。神からの贈与されている愛に、その愛を受けとらせ、わたしたちを活かそうとする聖霊の働きに、気づかされ、その働きの中